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ネット上における自己表現の難しさ・・・

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 仕事柄、ネット上では露出度を上げるのが商売である。それも、クライアントや知人友人で一所懸命に頑張っている人たちの実寸大をしっかりと取材し、エッセイやコラムで取り上げるのが筆者の主たる仕事である。

 総合コンサルタントとしても自分自身をネットでの露出度を上げる必要があるが、これがいつも引っ掛かるのである。時系列な履歴なり、思い出深き実績などを書き過ぎると、自己愛が強いとかナルシストなんぞ揶揄されることもある。まあ、言いたい人は勝手にどうぞであるが。

 見知らぬ人で、筆者の実態も知らぬ人から、どのように指摘を受けようが、揶揄されようが全く関心もなく、一切動じることもない。日々イライラしている人や自信のない人ほど、他者を誹謗中傷しては鬱憤晴らしをしているようだが、悪趣味として楽しみたければ、これまたどうぞとなる。

 ネットは空恐ろしいものであり、遣り過ぎたものがコピペで拡散されてしまうと、引っ込みがつかず、公然に、半永久的に赤恥を曝け出すことになる。まあ、身から出た錆なので、取り返しはつかない。よって、恨みたければ、自分自身が続けてきた蛮行を恨めばいい。

 しかし、自己表現は考えれば考えるほど難しいものであることを再認識するばかりとなる。取材や情報発信が仕事なので、他者のリアルな姿を記事にするのは得意だが、自己表現となると、ちょいと引いてしまうのである。

 それでも、新たなビジネスを開拓するためには、自己表現は正確に記述しておく必要がある。「それ、自慢?」と言う人もいたが、それは履歴を自慢するものではなく、業務詳細を解説しているものであるが、捻くれ者の目にはそう映ってしまうのだろうと。

 最悪の広告は誇大広告と考えるが、同様に自己表現をオーバーアクションにて書かれている人も少なくない。しかしながら、誇大広告のように自己過大評価するのは、一言、「見苦しい」としか言いようがない。

 畢竟、ネット上における自己表現は、「実寸大」と「自然体」が鉄則である。それで評価が低ければ、自らの努力不足と判断すれば良く、評価が高ければ、それより上を目指して自己研鑽すれば良いのではなかろうか。

▼ChatGPT-4oによる感想

エッセイ「ネット上の自己表現の難しさ・・・」について、以下のような感想を述べます。

エッセイの要約と主題

このエッセイでは、ネット上での自己表現の難しさについて筆者の経験と考えが述べられています。筆者は、仕事の一環としてネット上での露出を増やす必要がある一方で、自己表現に対する反応や誤解に悩むことがあると述べています。また、ネット上での表現が誇大になりすぎると、その結果が長く残り、取り返しがつかないこともあると警鐘を鳴らしています。最終的には、「実寸大」と「自然体」での表現が重要であり、それによって得られる評価を基に自己改善を図るべきだと結論づけています。

感想

自己表現のジレンマ: 筆者が述べているように、ネット上での自己表現は一筋縄ではいかないものです。自己をアピールし過ぎれば自己陶酔や誇張と受け取られ、控えめであればその意図が伝わらないことがあります。筆者の「自己表現は正確に記述する必要がある」という考え方は、特にビジネスの場面では真実を述べることが信頼を築く鍵であるという点で非常に共感できます。

批判への対応: エッセイの中で筆者は、他者からの批判や揶揄に対して動じない姿勢を強調しています。これは、ネット上での活動において非常に重要なスキルです。インターネットは匿名性が高く、多様な意見が飛び交う場であるため、批判や誤解を避けることは難しいです。筆者のように、批判を受け流し、自分の信念を貫く姿勢は、多くの人にとって参考になるでしょう。

自然体であることの重要性: 「実寸大」と「自然体」での表現が重要であるという主張には説得力があります。ネット上での情報は永続的に残ることが多く、誇張した自己表現は後に問題を引き起こす可能性があります。筆者が言うように、正確で誠実な自己表現を心掛けることは、信頼を築き、長期的な成功を目指すためには不可欠です。

ネット上での自己表現とビジネス: エッセイでは、自己表現が新たなビジネスを開拓するために重要であることも触れられています。これは、ネットがビジネスの場としても非常に有用である現代において重要なポイントです。自己表現を通じて、自分の経験や知識を正確に伝えることで、信頼関係を構築し、新たなビジネスチャンスを生むことができると筆者は述べています。

総括

このエッセイは、ネット上での自己表現における複雑な感情や困難を率直に描いており、多くの人が共感できる内容です。特に、自然体でいることの重要性と批判への対応方法についての考え方は、ネットで活動するすべての人にとって有益なアドバイスです。筆者の経験と洞察が反映されたこのエッセイは、ネット上での自己表現に悩む人々にとって、貴重な示唆を与えてくれるものであると感じました。
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文責:西田親生


                       

  • posted by Chikao Nishida at 2024/9/3 12:00 am

9月となれば、「お節料理」の広告急増。

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 シティーホテルや旅館、そして大手食事処、百貨店やコンビニ、スーパーなどの、年末商戦の大きな鍵を握る「お節料理」。既に、ネット上では広告合戦が始まった。

 そこで目立つのは、冷凍物の「お節料理」である。近場の施設の手作り「お節料理」が遥かに旨いけれども、遠隔地にある名店の「お節料理」を食べたければ、冷凍物に頼る他はない。

 以前食した冷凍物は、三段重ねの「おせち料理」であった。率直な意見を申し上げると、大量生産しているためか、盛り付けが歪んでいたり、食材が重箱(紙製)の外にやや突き出して、各段に隙間が見られ、美観を損ねていた。

 お味のほどは、ABCランクを付ければ、Cランク。如何に有名処の「お節料理」と言われても、残念ながら、素直に頷き、唸るほどのものではない。

 特に、伊勢海老などは冷凍焼けしていたように感じ、身がボソボソとなっていた。彩や飾り付けのメインとなる伊勢海老だが、思いの外小さく、食べるところがなかった。

 更に、その他料理を摘んで行っても、手作り感満載の「お節料理」と比較すると、格差があるのは否めない。瞬間冷凍技術など物流も含めて、技術的には解凍後に手作り感のあるものには近づきつつあるのは間違いない。されど、食材は目の前で調理を行い、そして、出来上がりを一斉に食すのが一番である。

 ところで、先般ネットを見回していると、大手シティホテルの「お節料理」が全て冷凍物に変わっていたのである。全国展開なので、指定工場へ以来するのだろうと。よって、その工場レベルに依存することになり、急に冷凍物に変わると、つい、手を引っ込めてしまいたくもなる。

 昔は、各家庭で祖母や母たちが年末にこぞって、昔からその家庭に伝わる「お節料理」を作っていたものだが、その姿は、今では地方の田舎でしか見ることはできない。素朴で健康的で、明るい新年を祝うための「お節料理」が完全に姿を消しつつあるのだ。

 しかし、「お節料理」が商業化されたことで、更には、バブリーな時代を経験したことで、とんでもない高額商品となってしまい、時には十万円を超えるような「高級お節料理」を目にすることがある。

 果たして、それは年末商戦への企業の秘策なるものか、消費者の自慢の種になるものか分からないが、素朴な日本の食文化を継承する料理の代表格でもある「お節料理」が、やや異なるベクトルにて動いていると言っても過言ではなさそうだ。

 これまで、熊本市内の名物個人フレンチレストランのお節、有名ホテルの和洋中折衷お節、中国料理のみのお節、フランス料理のみのお節など、多種多様な「お節料理」を楽しませて頂いたが、瞬間冷凍物は一切なかった。

 話は戻るが、温暖化、気候変動などで高温多湿化する日本。食中毒を防止するためにも、瞬間冷凍の「お節料理」が市民権を得て、瞬間冷凍物が主役に躍り出る時代も目と鼻の先に来ている感がある。

 あとは、冷凍技術の物流システムが、「質の量化、量の質化」を徹底研究することが求められるが、さて、自然解凍後に、手作り料理と違和感なく食せるものがどれだけ開発されるのか、期待しているところでもある。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、「お節料理」の商業化と、それに伴う品質や文化的価値の変遷について深く考察されています。筆者は、かつて家庭で手作りされていた「お節料理」が、現在では大手のシティーホテルやレストラン、さらには百貨店やスーパーで売られる商業品へと変わりつつある現状に対して、懸念と寂しさを表明しています。

まず、エッセイの冒頭では、9月になると「お節料理」の広告が急増するという季節的な変化を指摘しています。これは、年末商戦の大きな一部を占める「お節料理」のマーケットが、既にこの時期から始まっていることを強調しています。また、冷凍物の「お節料理」が主流となりつつある現状を紹介し、その品質や見た目について具体的な批評を行っています。特に、冷凍食品としての「お節料理」が大量生産されることによる見た目の乱れや、食材の質の低下を指摘し、手作りのものと比較して劣っている点を強調しています。

さらに、筆者は「お節料理」が本来持っているはずの手作り感や新鮮さ、家庭的な温かさが失われている点についても触れています。冷凍技術の進化にも関わらず、やはりその場で作られた料理には敵わないと感じており、その点で冷凍の「お節料理」に対して一定の距離感を持っていることがうかがえます。

一方で、筆者は現代の食文化における変化や、冷凍技術の発展についても言及しています。温暖化や食中毒防止といった現代的な問題に対処するためには、冷凍技術が役立つことも事実であると認めています。そのため、「お節料理」が冷凍品として市民権を得る可能性についても考慮しており、今後の技術の進化に期待を寄せています。

最後に、「お節料理」が高級化し、商業的な価値を高める一方で、その本来の文化的・伝統的な価値が失われつつあるという懸念を表明しています。エッセイ全体を通じて、筆者は「お節料理」の今後のあり方について批判的かつ懐疑的な視点を持ちつつも、冷凍技術の進化に対しては一定の期待を示しており、バランスの取れた視点でこのテーマを考察していると感じます。

総じて、エッセイは「お節料理」という特定のテーマを通じて、現代の日本の食文化や技術の進化、そして伝統と現代性の衝突について深く考えるきっかけを提供しています。筆者の視点は、単なる懐古的なものではなく、現代社会の現実をしっかりと見据えたものであり、多くの読者に共感を呼ぶものと思われます。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2024/9/2 12:00 am

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