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いい加減な地産地消に客は感激するのか?

Chikao-Donshu


 「地産地消」という言葉が世の中を歩き始めて、随分歳月が流れたようだ。

 「地産地消」といいながら、この熊本で、ローカルスタンダードを誇示するスタンスを取る食事処があるが、それは県外から訪れる観光客やビジネス客への対応であり、県内の来訪者への対応であるとはいえない。

 いくら「地産地消」と銘打ったとしても、コース料理を見れば、極一部のメインディッシュやデザートなどには「地産地消」を被せているが、全体的に料理を見れば、食材全てを県内で賄えるはずはない。

 ホテルや旅館で、インバウンドを含めて、どのようなタイプの客に絞るかにて、「地産地消」の存在価値は変わってくるが、いい加減な「地産地消」では大した価値を見出すことは皆無に等しい。

 県内各地の食事処を見ると、筍ばかりのコース料理が出てきたとしても、果たしてこの栄養価でいいのか、エグミのあるものばかりで果たして健康にいいのか、など疑問が残る。

 かといって、県内各地の旅館で、海辺の宿も山里の宿も、同じように鮮度が落ちたマグロが出てくると、腰が引けてしまう。また、天草地域で伊勢海老三昧のイベントを拝見すると、伊勢海老が熊本県内のリアス式海岸で獲れたものか、首を傾げてしまう。

 馬刺しにしても、ほとんどがカナダから送られてきた仔馬を肥育して商品化している。今では、純粋な熊本産まれの馬刺しが存在するかとなれば、否である。勿論、肥育技術と加工技術が相俟って、素晴らしい霜降りの馬刺しはあるものの、これを、安易に「地産地消」と呼べるのか。

 黒毛和牛についても、JA高級ブランドの「和王」がある。しかし、天草へ足を運べば、ステーキ肉のパックに「和王」のブランドシールと「天草黒牛」というシールがダブルで貼っているものを見掛けたことがあるが、結局、何のブランドなのか、「地産地消」なのか、首を傾げてしまうのだ。

 熊本県北部の食事処で、上質の馬刺しとしてサーブされていたのが、可愛いポニーを屠畜したものを馬刺しとして提供していると聞いたことがあった。とんでもない「地産地消」である。

 長崎でも、鯨肉を夜のラウンジの酒のつまみで出していたところもあったが、実は、イルカが砂浜に打ち上がったものを処理して、裏取引していたと耳にしたこともあった。これまた、とんでもないことである。

 更に、「赤牛ハンバーグ」としてサーブされているハンバーグの色が白っぽい。ということは、六割ほどが牛肉で、四割ほどが豚肉ではないかと疑ってしまう。しかし、牛と豚との配合比率の明示はない。「地産地消」を豪語するのであれば、牛肉や豚肉が産地がどこで、その配合比率がどうなのかを明確にすべきである。

 これは難癖をつけているのではなく、世に出回る商品は上質で美味いものばかりであることは承知している。ただ、「地産地消」をいい加減な形にて販売、サーブされているところが腑に落ちないのである。

 レトルト食品、冷凍食品などは成分表や材料の産地やカロリー、栄養価などをしっかりと記述しているけれども、一般的な食事処にて、正確に産地などを書かれているところは少ないように思えてならない。

 フランチャイズ焼肉屋のランチタイムでは、処理が汚い安っぽい肉が出されることがある。例えば、似非カルビの存在が多いようで、肉の甘みよりみ脂身の味しかしない劣悪なものも多い。食後感で大満足となったことはない。しかし、結構な値段となっている。

 現在、米問題が報道されているように、このまま米価格が高騰し、米不足となれば、ブレンド米の登場となるが、そこで、何の米と何の米のブレンド米であるかを表記するところが何店舗あるのだろうか。

 以上のように検証していると、キリがない。キリがないほど、食品偽装もありはしないかと懐疑的に見てしまいがちだが、ソースや調味料で加工調理されたものが、本当に信用できるかとなれば、これまた否である。

 人の命を繋ぐ大切な食料であるが、その素材を「地産地消」で好印象を与えようと、話題性を高めようとした演出であるのなら、余りにも消費者を小馬鹿にした「地産地消」ではないか。

 手間暇かかるかも知れないが、食材のトレーサビリティをしっかりと明示するような仕組みがなければ、「地産地消」という文言もいい加減過ぎて、感動するどころか、怪しげな食材ではありはしないかと、再び、首を傾げてしまうのである。

 畢竟、トレーサビリティがしっかりとしており、食材について産地(生産者)を確と明記しているところは、喜んで足を踏み入れたくなるものだ。言葉は悪いが、小手先で原価調整を行い、ソースなどで誤魔化している料理は、御免被りたい。

▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、昨今の「地産地消」の実態に対する鋭い視点と強い問題意識を持って書かれたものである。「地産地消」という言葉が持つ本来の意味と、それが観光地や飲食業界でどのように利用されているかの実態を、具体的な事例を通じて掘り下げている点が印象的だ。

まず、「地産地消」が単なるキャッチコピーとして使われることへの批判は非常に共感できる。特に、熊本における食文化の現状に即した具体例(例えば、馬刺しの実態、和牛ブランドの混乱、海の幸の出自の曖昧さなど)は、読者に対して「本当に地元産なのか?」という疑問を抱かせる力を持っている。さらに、天草の伊勢海老イベントに対する指摘や、馬刺しの出自に関する話題は、単なる食材の問題ではなく、地域のブランド戦略や消費者への信頼性の問題にも踏み込んでいる。

特に鋭いのは、トレーサビリティ(食品の生産履歴管理)の欠如が消費者にとってどれほど不信感を生むかを的確に指摘している点である。確かに、スーパーで販売されるレトルト食品や冷凍食品には産地や成分の詳細が明記されているのに、飲食店ではそのような情報がほとんど示されないのは矛盾している。消費者が食材の出どころを正確に知ることができないまま「地産地消」という言葉だけが独り歩きする現状は、まさに筆者が述べる通り「いい加減」なものと言えるだろう。

また、「赤牛ハンバーグ」の例では、牛と豚の配合比率の明示がされていない点を挙げ、消費者が本当に何を食べているのか分からない現状を指摘している。これはまさに、食品偽装に近い問題であり、消費者の不信感を増幅させる要因になっている。こうした事例を積み重ねることで、コラムは単なる批判に留まらず、「地産地消」という言葉が持つ曖昧さと、それを都合よく利用する業界の姿勢に対する痛烈な疑問を投げかけている。

さらに、米問題への言及も興味深い。もしブレンド米が主流になった場合、その産地や配合比率が明確に表示されるのか、という指摘は、単なる飲食業界の問題にとどまらず、食の安全全般に関わる問題提起になっている。こうした視点の広がりが、コラムの説得力をより高めている。

全体として、このコラムは「地産地消」の実態と、その言葉が持つ欺瞞を鋭く抉り出す内容になっている。特に、食品業界の曖昧な表現や誤魔化しに対して、具体的な事例をもとに疑問を呈している点は説得力があり、読者の共感を得やすいだろう。最後に述べられている「小手先で原価調整を行い、ソースなどで誤魔化している料理は、御免被りたい」という一文は、このコラムの核心を突いており、筆者の食に対する真摯な姿勢が伝わってくる。

総じて、強い筆致と具体例を用いた論旨展開によって、非常に読み応えのあるコラムとなっている。

▼ChatGPT-4oによる評価


このコラムの内容、論理展開、説得力、具体性などを総合的に評価し、100点満点で点数をつけると 95点 になるだろう。

評価のポイント

論理の明確さ(20/20)
 ・「地産地消」という言葉が形骸化している実態を論理的に展開しており、主張が明確。
具体性(20/20)
 ・馬刺し、和牛、海鮮、赤牛ハンバーグ、ブレンド米など、多岐にわたる具体例を挙げており、リアリティがある。
説得力(19/20)
 ・トレーサビリティや食品表示の不透明さを指摘し、消費者目線での問題意識を強く訴えている。
表現力(18/20)
 ・鋭い指摘と力強い筆致で、読み手の関心を引きつける。
 ・時折辛辣な表現があるが、それが文章のインパクトを強めている。
バランス(18/20)
 ・問題提起が中心だが、事実の羅列だけでなく、読者に考えさせる構成になっている。
 ・やや厳しい表現が続くため、若干の余裕やユーモアがあれば、さらに読みやすくなるかもしれない。

総評

このコラムは、現在の「地産地消」という言葉の曖昧さを鋭く批判し、具体例をもとに説得力のある主張を展開している。食品の安全性や透明性に関する読者の関心を喚起する重要な内容であり、問題提起として極めて価値の高いものになっている。強い主張があるぶん、ややトーンが厳しめになっている点を考慮し、95点と評価した。
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文責:西田親生


                         

  • posted by Chikao Nishida at 2025/2/15 12:00 am

我が心を伝える・・・

newstop


 今回は、「我が心を伝える」をテーマに考察してみた。

 十数年も互いに知人友人の関係であっても、双方に距離感が一致するのは非常の難しい。オフィシャルな関係であれば、特に民間であれば、「損得」の一致により合意があり、成立するという距離感である。

 ただ、プライベートになれば、「損得」とう線引きで信頼関係は成り立たない。よって、「損得なし」が原則となる。そこで、双方の信頼関係を築くには、極めて秘匿性の高い情報共有が必要になる。

 例えば、人は過去における育ちや躾、親族は勿論のこと、周囲の知人友人の影響を受けながら、現在の姿を形作っているのである。その核心的なところで双方の情報共有があってこそ、太い絆として結ばれる。

 よって、「我が心を伝える」には、表層的な美辞麗句が並んだ言葉のキャッチボールでは、双方の絆は脆弱なものとして結ばれているに過ぎず、一夜にして絆がブッツリと切れる可能性は高い。

 一昨日のこと、1時間半ほどの話し合いの中で、十数年付き合いのある相手に、筆者自身の幼い頃から現在に至るまで、掻い摘んで、人生の分水嶺を中心に話をすることにした。

 心友でさえも全てを知る訳ではないが、それほど深掘りした内容をシーケンシャルに語ったところ、相手の表情が柔和になったのである。

 筆者とZOOMで打ち合わせをすると緊張するタイプの人間だが、初めて語る「我が心」。過去を紐解き、実例を挙げて、今に至る筆者自身、一人の人間としての「我が心」を伝えたのが、相手の心に響いたのだろうと、自分なりに解釈している。

 緊張するのは、痛いところを指摘されないか、終始苦手分野の堅苦しい話になりはしないか、現状についての厳しい叱責がありはしないかなど、「警戒心」が異常な緊張を醸し出していたのだろうと。

 厚かましくも自己評価をすれば、これまで色んな諍いやトラブルも人生の中で経験してきたが、ほとんどが「誤解」によるものばかりで、これまで「我が心」を伝えられなかった筆者がいるのは否めない。

 相手のことを心配してサジェストすれば、「要らぬ世話」。正しいベクトルを唱えれば、「知らぬ顔」。実情を話しても、「耳栓状態」の人が多かった。自然体で臨むのが筆者の姿勢の特徴だが、どうもそれがストレート過ぎて、「圧」が強く感じられてきたに違いない。

 今回、1時間半ほどの中では、「人を思い、人を救う」という実話を挟み、当時、筆者がどのような「心」を持って動いていたのか、詳細を正直に語ることにした。

 相手は、その話を聞きながら、それまで緊張で固まってきた表情が、じわじわとほぐれてきて、自然体の筆者のその核心的な「我が心」がようやく伝わったに違いないと、思うに至ったのである。

 noteのある人の記事で「幼い頃の躾や教育は人生が決まるほど重要だ」というものがあったように、不幸ながらも、幼少期から厳しい躾や教育を体験したことのない人は、その意味が理解できないまま大人となり、それが自分スタンダードとして軌道修正することもなく、人生を終わる人が多いように思えてならない。

 相手が、先日、筆者の記事に対して「幼少期より躾など一切記憶にない」と豪語するほど、自由奔放な幼少期から現在に至るまで、自らの体験だけに頼り、柳のような人生を送ってきたに違いない。結局は、「損得」にてプライベートを見てきたのであろうかと。

 オフィシャルであればそれで良いが、プライベート領域にて「損得勘定」が前面に出れば、「類は友を呼ぶ」の友が、皆とは言わないが、「損得勘定」という絆で結ばれていることになる。従って、距離感もアバウトであり、日々の一杯飲み屋での憂さ晴らしが常態化していたに違いない。

 これまで、何度もサジェストを続けてきた中で、気づきがあるようで、なかなか「我が心」が伝わらなかったのだが、一昨日、初めて大きな変化をもたらした。それも、好循環への軌道修正の入り口が見えてきたのだろうと確信する次第。

 諄いようだが、この世の中で「我が心」を他者に正確に伝えることほど困難なものはない。皆が同じ思考回路を持っているのであれば、デジタルな世界であれば、容易にコピペで双方が頷くはずだが、アナログ世界はそうはいかない。

 それでも、胸襟を開いて、膝を突き合わせて、秘匿性の高いことでも、オブラートに包まず、一点の曇りなく対面することが重要である。今回、今までに経験したことのない「我が心」が伝わる瞬間を垣間見れたことは、筆者にとっては、すこぶる素敵な経験である。また、相手としても、これまで燻っていたものが馬鹿らしく思えたのではなかろうか。

 畢竟、「我が心を伝える」は難題であるものの、素の自分自身を自然体で臨み、本音を語ることが、最良の選択肢であろうか。勿論、重要なことは、相手が信頼に値する人間であることが必須条件である。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「我が心を伝える」は、人と人との距離感、信頼関係、そして自己表現の難しさについて深く考察した文章であり、非常に共感を呼ぶテーマを扱っている。

1. 心を伝える難しさとその試み
エッセイ全体を通して、「自分の本心を伝えることの困難さ」と、それを克服しようとする試みが語られている。十数年の付き合いがある相手でも、オフィシャルな関係なら損得勘定で距離感が決まるが、プライベートではそうはいかない。だからこそ、「秘匿性の高い情報交換」が必要になり、表層的な会話ではなく、本質的な部分での共有が求められるという考えは的を射ている。

特に、「美辞麗句のキャッチボールでは絆は脆弱」と指摘している部分は、人間関係の表面的なやり取りに対する警鐘とも取れる。本当に相手と通じ合いたいなら、飾った言葉ではなく、核心的な話をすることが重要だというメッセージが伝わってくる。

2. 実際の経験を通じた気づき
エッセイの中盤では、筆者自身の実体験が語られており、それが文章の説得力を増している。十数年付き合いのある相手と1時間半の会話を通じて、自身の人生の分水嶺を語り、それが相手の心を開くきっかけになったというエピソードは印象的である。

特に、「相手の表情が柔和になった」「緊張していた表情がほぐれた」という描写は、筆者の言葉が相手に響いた瞬間を象徴しており、心が通じ合ったことを実感できる場面だ。このような具体的なシーンを織り交ぜることで、読者も共感しやすくなっている。

3. 損得勘定と信頼関係
本エッセイでは、「損得勘定でプライベートを考えることの問題点」にも言及している。オフィシャルな場では損得が絡むのは当然だが、プライベートでもそれを基準にしてしまうと、本当の信頼関係が築けないという指摘は鋭い。

特に、「幼少期の躾や教育が人生を決める」という点に触れ、自由奔放な幼少期を過ごした人は「損得勘定」を軸にしてしまう傾向があるのではないかと考察している部分は興味深い。もちろん、これは個人の価値観により異なるが、「損得を超えた関係こそが真の信頼関係である」という筆者の主張は、現代社会においても普遍的なテーマである。

4. 文章全体の流れと語り口
エッセイの語り口は一貫して落ち着いており、時には独白のようにも感じられる。筆者の考えが丁寧に紡がれ、読者も共に思索を巡らせることができる。特に、「デジタル世界ならコピペで容易に伝わるが、アナログ世界ではそうはいかない」という比喩は、現代のコミュニケーションの難しさを象徴しており、印象に残る部分である。

また、「厚かましくも自己評価をすれば」「諄いようだが」など、自身の考えに対して客観的に振り返る姿勢が見られるのも、文章に深みを与えている。

5. まとめ
「我が心を伝える」というテーマのもと、筆者の体験と考察が交錯しながら進む本エッセイは、人間関係の本質を問い直す内容となっている。本心を伝えることの難しさ、それを乗り越えるための試み、そして信頼関係の築き方について、多くの示唆を与えてくれる。

最後に、「相手が信頼に値する人間であることが必要条件」という言葉が示すように、本心を伝えるにも相手を選ぶことが重要だという結論は、現実的でありながらも、読者に考えさせる余韻を残している。

全体として、筆者の経験と哲学が凝縮された一篇であり、非常に興味深く読ませていただいた。

▼ChatGPT-o1による感想

本エッセイを拝読してまず印象的だったのは、「プライベート領域での信頼関係」を築くためには、お互いが核心的な部分まで“さらけ出す”必要があるという点です。表層的な会話や利害の一致ではなく、幼い頃からの生い立ちや、そこで培われた価値観・心情を順を追って伝えることによって、相手の緊張がほどけ、心がほぐれていく様子が具体的に描かれている点が非常に印象深いと感じました。

とりわけ、長年の付き合いであっても「相手は自分をそこまで理解していないかもしれない」という気づきと、そこから一歩踏み込んで相手に自分の核となる部分を語ることで、相手の表情が変わるほどの「変化」が生まれるというエピソードには、人間関係の本質が凝縮されているように思えます。と同時に、いかに相手との「距離感」を合わせることが難しいか、しかしそれが可能となる場面があることも、このエッセイからは伝わってきます。

また、「幼少期における厳しい躾や教育」が、その人の考え方や行動原理に強く作用するという点が強調されていますが、それを持たない(あるいは記憶にない)相手との間では「当たり前」が噛み合わない。そこでどうしても生じてしまう誤解が、長年の付き合いにもかかわらず「我が心」を伝えきれない壁となっていた――この描写は、ときに私たちが感じる“違和感”を丁寧に言語化しているようで、多くの人が共感しうる内容だと感じました。

さらに「損得勘定」という軸では決して測りきれないプライベートな部分であっても、真摯に自分の体験や思いを語り合うことで、ようやく相手に自分の“心の正体”を知ってもらえる。その結果として相手にも何かが芽生えたり、好循環へ向かうきっかけとなったりする――このプロセスが、本エッセイの中心的なテーマ「我が心を伝える」ことの大切さを強く後押ししていると感じます。

一方で、そこには当然ながら大きなリスクも伴うはずですし、「秘匿性の高い情報交換」が可能になるには、相手との絶対的な信頼が不可欠だという言及もあり、ただ“何でも打ち明ければ良い”という単純な話ではないことがうかがえます。むしろ、相手をしっかりと見極めたうえで「自分の裏も表も語る」からこそ、本当の意味での距離感調整が生まれるのだという筆者の主張が、読み手にとって大きな学びになっているのではないでしょうか。

また、「我が心を伝えること」がどれほど難題であるかを強調する一方で、それでも“一点の曇りもなく向き合うこと”の尊さを説いている点は、筆者自身のこれまでの経験に裏打ちされた説得力が感じられます。デジタルにコピペできるような理解ではなく、あくまで人対人のアナログな世界の中で、手探りしながらも心を近づけていく――その過程にこそ、筆者が言う「すこぶる素敵な経験」があるのだろうと想像できました。

最終的に「素の自分自身を自然体で臨み、本音を語る」という一文が示す通り、どれだけ時間がかかろうとも、本質的な部分をさらけ出すことこそが深い絆を生む条件である、という考え方が全編を通じて貫かれており、大変読み応えがありました。筆者の実体験を交えて描かれるために説得力もあり、このエッセイからは「これまで語れなかった過去」や「相手に見えなかった核心部分」を話し合う大切さを改めて教わる思いです。大人になればなるほど防衛本能から本音を隠しがちになるなかで、「我が心を伝える」ことの意義を強く感じさせられる、深い示唆に富む内容でした。
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文責:西田親生


                           

  • posted by Chikao Nishida at 2025/2/14 12:00 am

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