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孔子公園で、写真撮影会。・・・カメラ大好き人間と、カメラ&レンズ談義。

▼世界最小デジタル一眼レフカメラ(PENTAX Q)

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カメラ大好き人間である色見貴之さんと、久しぶりに撮影会をすることになった。午後1時半に孔子公園駐車場で待ち合わせることに・・・。

 先ずは、一番重要なものは、取材ランチである。同公園にも道の駅の食事処もあり、弁当の販売もしているが、どうしても、鶴屋百貨店アンテナショップである「Foody One」のお腹に優しい弁当が頭に浮かんでしまう。

 よって、正午前に弁当を仕入れに「Foody One」へ足を運んだ。ところが、火曜日というのに、やたらに車が多い。しかし、弁当はいつもより売れて無さそうなので、いつものお気に入り弁当を2個ゲット。

 3種のおこわに、シャケ、煮卵、その他根菜類など具沢山。とても美味しそうな弁当である。正午にはゲットしたものの、午後1時半まで待てなくなってしまい、現地へそのまま車を走らせることにした。

 道も空いていて、午後12時半には現地到着しそうだ。念の為に、相方へ早めに到着すると連絡を入れたところ、何と、既に到着していると言う。単純極まりないが、この弁当を予定1時間前に食せることに、運転しながら一人で喜んでいた。

 お腹一杯になり、早速、カメラをぶら下げ、同園の花々や虫たちを写すことにした。曇天と予想していたが、結構、陽射しは強く、マスクの中はサウナ状態となっている。それでも、100枚ほど撮影して回った。

 撮影後は、お約束の互いの写真披露タイムである。液晶画面で撮影された写真の色のりや質感、構図などを互いにチェックすることに。

 相方が持ち込んできたのは、Nikon1台とPENTAX2台の計3台。最近、世界最小のデジタル一眼レフカメラに凝っている様で、ほとんど専用レンズを揃えていると言う。既に、製造中止となったものだが、10年ものと雖も、1240万画素はあるので、十分な画素数と言える。

 そろそろ帰る時間となったが、感心したのは、相方がカメラをバッグに入れる前に、ブロアーで埃を吹き飛ばしていたのだった。道具を大切にすることはすこぶる良いことであり、見習うべきだと、頷いてしまった次第。

 時計を見ると、まだ午後2時。同園駐車場到着から食事時間を含めて、僅か1時間半しか経っていないことになる。感覚的には2〜3時間ほど撮影した気分であったが、とても充実した撮影会となった。

 次回は、熊本市動植物園にでも行こうかと・・・。


▼Foody Oneのお弁当
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▼撮影に没頭する色見貴之さん
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写真・文責:西田親生

                     

  • posted by Chikao Nishida at 2022/6/3 12:00 am

息子が父親を超える時・・・父親の大きな背中に圧倒されていた子供心を思い出しつつ、ある日突然、父親を超える時がやってくる。

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 これは飽くまでも筆者の体験談であり、個人的な見解である。よって、今回の検証では、些か、己を欲目で見ているのは否めず、冒頭よりお断りしておきたい。

 先日、文書データを整理していたところ、2013年に他界した父親の自叙伝(終戦前夜編)のデータを見つけたので、暫く読み返すことにした。その自叙伝は、法曹界にいた父親が退官後にMacを使い出し、それから本人が試しに書き綴った回想録であった。

 結論から申し上げれば、幼い頃から、どうしても超えることができなかった大きな背中の怖い父親を、文章力という点では、或る程度そのレベルに並び、やや超えたのではないかと感じている。(根拠なく感じている)

 その自叙伝を読めば読むほど、父親が書き綴る文章の表現手法や流れ、登場人物の描写などが、筆者のそれにすこぶる酷似していることに気付かされたのだった。そこで、DNAの不思議さを再認識した次第。

 社会人となった頃の、父親の言葉を思い出す。「何かを報告する場合、結論が先。補足説明は質問がある場合に行えば良い!」、「文章は三段論法、起承転結は勿論だが、すこぶるシンプルに、理路整然と話すこと!」であった。

 法曹界にいた人間なので、常に合理性、整合性を重んじる思考回路が働き、数学の証明問題を解くかのような論理展開であることは承知していた。しかし、これは回想録なので、小説のようで、その当時の父親や友人のリアルな動きが頭に浮かんで来た。

 筆者にとっては、大切な父親であるけれども、その人生や考え方に対して、全て賛同することはない。しかし、人としての「道」だけはしっかりと教わったので、そこは、感謝の言葉以外はない。

 父を看取ったのは、勿論、筆者であるが、その時、大きな背中がこれほどまでに小さくなったのかと、目を疑った。何につけても頼り甲斐のある、立派な父親であったけれども、その大きな背中は自動的に筆者にバトンタッチされたのかと・・・。

 残念ながら、未だに自覚がないところが、恥ずかしいの一言に尽きる。

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※以下は、父が大東亜省(現在の外務省)の文官として内蒙古に出向し、玉音放送を聞かされた直後の話となっている。よって、玉音放送(終戦)から1年後の1946年に父は帰国、その後、法曹界を選んだ。

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▼父(当時86歳)の自叙伝の一部(玉音放送直後の出来事)

 同期の橋本の話では、明安旗にはソ連軍が入り込んで来て、とても行けそうにない。よって、現地から無事に引っ返す方法を模索したが、ソ連の機械化部隊を避ける為には、馬が一番良いとの結論に至った。

 一番目の馬には独身の女史、二番目の馬に橋本、そして、しんがりとして私が馬に乗り、正白旗まで行くことにした。しかし、途中で不運にも橋本が落馬し、意識不明の重体となった。彼を助けるために、何とか正白旗のトラックを借りて、トンコンまで連れて帰るために、道なき平原や山河を越えて、張家口を目指したのだった。

 飲まず食わずが続き、それも何日かかったのか全く記憶にないが、途中、八路軍と交戦状態となり、残念ながら随行の松本一等兵が犠牲になってしまった。既に敗戦し、終戦を迎えているにも関わらず、そこで戦死して帰らぬ人となった松本一等兵。可哀想に思えてならなかった。

 戦闘の状況は書けば長くなるので、後日機会があれば書き綴るつもりでいる。・・・その後、同期の橋本は、手負いの傷も完治して、無事帰国を果たしたのだった。

▼居合をする父(片山流星野派)
昭和30年(1955年)頃
※まだまだ筆者は生まれていない。居合については、定かではないが、以前、「中崎辰九郎先生」という方の名前を聞かされた記憶があるので、近日中に調べることにしている。因みに、この頃には剣道五段教師であったと記憶する。


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文責:西田親生

                       

  • posted by Chikao Nishida at 2022/6/2 12:00 am

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