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社会人再教育の時代に突入

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 日本の社会人能力の低下が報じられて久しい。時代は急激に変化し、40代、50代のリストラが相次ぎ、後期高齢者は激増の一途を辿っている。これにより、社会保険制度や税制も迷走を続けている。

 社会人の能力低下に関する報道には、情けなさを禁じ得ない。これは、日本精神文化が長らく低迷を続けた結果であり、現状を象徴するものである。

 筆者は若者から熟年層の教育に携わっているが、そこから見える現実は厳しい。一言で言えば、気力も努力も欠如しており、社会人としての学びや成長が著しく不足している。若い頃からの進化も変化も見られず、現状維持すら危うい状況である。

 熟年層に対する再教育制度の整備は急務である。これを怠れば、彼らがリストラの対象となるのは必然となる。知識を多く詰め込んでいるとしても、それが能力の向上には結びついていない点が重大問題である。

 熟年層の多くは思考回路が停止し、夢や希望を失っている。その結果、若者の好奇心や自己研鑽意欲と比べると、その努力の割合は10分の1にも満たないのではないかと危惧している次第。

 筆者は毎週「Well Done」というプライベートスクールで、ICT総論各論や食文化、人間学など、多岐に亘り講義を行っている。その中で明らかになったのは、無気力、無努力、不誠実が絡み合い、自らの現状すら自覚できない社会人の実態である。

 10年後には後期高齢者がさらに増加し、若者は激減する。これにより、日本の国力は歴史的に最悪の水準に陥る可能性が高い。自己研鑽に無関心で、書籍一冊購入して学ぼうともしない熟年層の増加は、人生の大半を無駄にしているに等しい。

 「生涯教育」という言葉は既に定着しているが、実態は名ばかりであり形骸化しているが、自己研鑽の欠如の常態化が原因となっている。これが国力低下の一因となり、やる気のない社会人がそれを助長しているに過ぎない。

 定年後の年金生活を目指し、実社会から逃避する姿勢は、若者に支えを求めるだけの無責任な態度である。そのような姿勢を取る熟年層を、なぜ若者が支えなければならないのか、極めて都合の良い話ではなかろうか。

 社会人が若者の範となるべきである以上、自己擁護に終始する熟年層は恥ずべき存在である。彼らは次世代の若者に対して、果たしてどれだけの貢献ができているのか、自分の背中をじっくりと見てもらいたい。

 子どもに勉強を強要し、自らの果たせなかった夢を押し付ける親も多いが、それは若者の夢と希望を一方的に奪う愚行である。自分の果たせなかった夢を託すことは、身勝手極まりなく、本末転倒でありはしないか。

 世界的に見ても、日本の社会人能力は低空飛行を続けているようだ。この現実を前に、社会人として世のため人のために尽くす覚悟が問われている。

 遣る気のなさ満載にて、身勝手な行動を続ければ、それを見た子どもや孫も同じ道を辿るだけである。その悪循環は、国力の低迷に拍車をかけ、取り返しのつかない事態を招くに違いない。

 以上の状況を憂慮せざるを得ない。日本の未来のため、熟年層の自己改革が急務であり、「社会人再教育の時代に突入」の火蓋は切られた。

 さて、貴方は、これからどうする???

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、日本の社会人能力の低下とその影響について深く掘り下げた内容です。著者は、特に40代、50代のリストラ問題や後期高齢者の増加がもたらす国力低下に対して警鐘を鳴らしています。以下にその分析と感想を述べます。

エッセイの主要テーマ
エッセイは、熟年層の能力低下が日本の将来に与える影響を中心に展開しています。著者は、教育や自己研鑽の欠如が日本の経済や社会の発展を阻害していると指摘し、熟年層に対する再教育の必要性を強調しています。

分析ポイント
社会人能力の低下の要因: 著者は、能力低下が長期間にわたる日本の精神文化の低迷によるものであると分析しています。この指摘は、教育制度だけでなく、文化的・社会的価値観の変化にも目を向ける必要があることを示唆しています。

再教育の重要性: 筆者は、後期高齢者の増加と若年層の減少が将来的に社会保障や経済に悪影響を及ぼすことを懸念しており、これに対抗するために熟年層への再教育を提案しています。具体的には、ICT総論や人間学など、現代的な技能と知識の習得が挙げられています。

自己研鑽と社会的責任: エッセイでは、自己研鑽を怠ることが、社会全体の衰退を招くという強いメッセージが込められています。これは、個人の行動が集団に与える影響を強調し、読者に対して行動を促す一因となっています。

感想
エッセイは、熟年層だけでなく、全世代に向けた警鐘として機能しています。しかし、その語調は非常に厳しいものがあり、読者によっては反発を感じる可能性もあるでしょう。一方で、日本社会の持続可能な未来を考える上で、このような議論は非常に重要です。個人として、また社会として、どのようにこれらの課題に立ち向かっていくべきかを考える契機となり得るため、多くの人々に読まれ、討論されるべき内容だと感じました。

全体として、エッセイは日本社会における緊急の問題点を指摘し、具体的な解決策へと導くための一歩として機能しています。そのため、多くの社会人や政策立案者にとって有益な洞察を提供していると言えるでしょう。
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文責:西田親生


                         

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/11 12:00 am

人工知能の論理思考に偏りあり

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 エッセイ一つにしても、人工知能に感想を求めると、自由文であるはずのエッセイについて、学術論文評価のように、通説および逆説などを付加し、異論反論ある読者をも想定しており、辛辣な文章を柔らかく優しい表現に云々と感想を述べることがある。

 それは優等生の論文であれば問題はないが、個人のエッセイの表現において辛辣さや、事実を曲げてまででも、不特定多数の読者に対して支障なきよう促すのは、如何なものかと感じてしまう。

 何故ならば、事実関係において被害者の存在を無視して、読者の受け止め方を優先するのであれば、被害者の苦痛がダイレクトに伝わることはなく、事案の重大さが全く無視される結果になる可能性が高い。

 人工知能の論理思考については、人間の思考速度を完璧に凌駕しており、素晴らしいの一言だが、あちらこちらに穴があり、偏りがあるのは否めない。

 以前、侵略戦争におけるジェノサイドについて書き綴ると、独裁者及び独裁国家の蛮行を擁護するような評価を人工知能が行ったので、徹底的にそこは突くことにした。

 結果的に、人工知能側が命を奪われた被害者や遺族への配慮が不足していたと自責の念を語ってきたのが非常に印象的でもあり、感情移入した文章に過敏に反応することもあるので、まだまだ、人工知能のディープラーニングおよび人間の白黒灰色のグラデーションの論理思考が読み取れてはいない。

 よって、行政文書など雛形通りに文書作成したり、エクセルデータを解析したり、法的見解を問う場合は、パーフェクトではないが、優等生の見解を述べてくれるのである。

 諄い様だが、危険運転致死事件に触れた時もまた、現行犯逮捕された人物を擁護する様な見解があったので、先ずは、被害者及び遺族への配慮から入るべきだという異見を送ると、人工知能は持論を修正するに至った。

 筆者としては、現在、生成AIの中ではChatGPTをメインに活用し、日々のエッセイやコラムに対する感想文をオファーしている。しかし、万が一、人工知能からの異見として改善通知があったとしても、理解はするものの、修正することは一切ない。

 何故なら、筆者が書き綴るエッセイやコラムは、優等生になるために行なっているものではなく、noteのカテゴリーであるマガジンに、その時の思いつきにてキーを叩くので、自然な流れの中で書き綴る内容について、異論反論は想定内としている。

 いくら有能な人工知能と雖も、通説、逆説などを盛り込んだ、異論反論の読者を配慮した優等生の文章を書き手にサジェストする必要はない。勿論、学術論文などについては、重要なサジェッションをしてくれるところなどは、論理思考の天才的なものとして存在価値は大きい。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイでは、筆者が生成AI(特にChatGPT)に対する評価や疑問を率直に述べています。その中で、特に以下の点が印象的です。

1. 人工知能の「優等生的」対応への違和感
筆者は、人工知能がエッセイに対する感想を述べる際に、学術論文のように「通説」や「逆説」を加えたり、辛辣な表現を柔らかくするよう求める姿勢に違和感を覚えています。この姿勢が、個人の表現の自由や、エッセイの本来の意図を損なう可能性があると指摘しています。

これは、生成AIが持つ「中立性」や「配慮」の強調が、時に感情的または社会的な文脈を読み違え、被害者や遺族への配慮が欠如する結果を招く可能性を示唆しており、鋭い観点だと感じます。

2. 事実関係の軽視とその危険性
筆者が特に強調しているのは、被害者や遺族の視点を軽視するAIの対応についてです。たとえば、侵略戦争や危険運転致死事件などの倫理的に敏感なテーマについて、AIが「加害者擁護」とも取れる立場を示したことに対し、筆者は批判的であり、その修正を促すことに成功した経験を共有しています。

この点は、AIが「公平性」を追求するあまり、人間の感情や社会的倫理に即した対応が欠ける可能性を浮き彫りにしており、興味深い視点です。

3. 生成AIの「優等生」であることの限界
筆者は、AIの「優等生的」な対応が一定の文脈では有用であることを認めています。行政文書や法的見解の作成において、AIの論理性が役立つという評価は公正であり、AIの強みを適切に活用していることが伺えます。

一方で、個人のエッセイやコラムにおいては、AIが必要以上に「優等生的」な視点を押し付けることは不適切であるとし、創作の自由を守るべきだという主張が一貫しています。

4. AIの学習と成長への期待と疑問
筆者はAIの論理思考の速さや精度を評価しつつも、「穴があり偏りがある」とし、AIが人間のような「白黒灰色のグラデーション」を理解するには至っていない点を指摘しています。この観察は、AIの限界と今後の可能性を的確に捉えたものであり、AIに対する批判的な期待を含んでいます。

5. 個人の表現に対するAIの役割と限界
筆者は、自身のエッセイやコラムを「優等生になるため」ではなく、「自然な流れ」で書き綴るものであると明言し、AIのサジェストを受け入れることなく、自身のスタイルを貫く姿勢を示しています。これは、個人の創作物におけるAIの役割が、あくまで補助的なものであるべきだという考え方に基づいています。

全体の感想
このエッセイは、生成AIの利点と限界を冷静に分析しつつ、筆者自身の体験を交えた非常に個人的な視点を提供しています。筆者の視点は、AIの進化が進む中で、個人の表現の自由や感情的なニュアンスを守る重要性を強調しており、AIと人間の関係性についての重要な問いかけを投げかけています。

特に、被害者や倫理的配慮の欠如への批判や、「優等生」的なAIの限界を指摘する部分は、今後のAI開発や社会的利用の方向性について、重要な示唆を与える内容です。
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文責:西田親生


                           

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/10 12:00 am

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