
些細なことで、不快感を与えることも・・・
先般、あるレストランへ足を運んだ時のこと。奥のテーブルに席を取ったところ、あとから入って来た親子の客が、「絵本があるところが良いけどね。人が居るから、こっちに座ろう!」と、子供に言い聞かせた母親がいた。「人が居るから・・・」ということが、何の躊躇いもなく言葉に出るところに、その人の育ちの悪さや、子育て方法の間違いが露呈している。
自分たちは客であって、子連れだから、絵本があるところの席は当然に優遇されても良いではないかと主張しているようだが、それほど絵本のある席がお気に入りであれば、「申し訳ありません。子供が絵本を読みたいので、ちょっと横にある絵本を拝見してもよろしいですか?」と切り出せば、何の問題もない。
「人が居る」というのは、裏を返せば、本箱が遮蔽されて「邪魔」であることを言いたいのだろうし、その場所は子供のための席だよと、勝手に思い込んでいる節がある。もし、常識的に「本を拝見させてください。」となれば、「どうぞ、どうぞ!」と、喜んで席を離れてでも、子供達に本を選ばせる時間を取ることができる。
このような些細なことでの失言。暴言までには及ばないけれども、違和感や不快感を他人に与える言葉であることが理解できていないということだ。よって、迷惑を掛けなければ、何でも良いだろうという日頃からの言動となる。物理的に迷惑を掛けたら警察が動き出す。しかし、道徳とは、迷惑の云々の前に、違和感なり不快感なりを可能なかぎり他人に与えないところが、人としての「心配り」なのである。
その子供も、大人になれば、同じシチュエーションにて、「人が居るから、こちらに来なさい!」と注意を促し、「お客様の邪魔にならないように、こちらで静かにしておきなさい。」とは言わないだろうと思った次第。
教科書には人間教育として詳細の定めがない「躾」や「道徳」。日頃の自分の生活がスタンダードとなっているので、それが正しいのか否かのチェックは、個人レベルでしかできない。ほとんどの人たちは、日々の暮らしに慣れ親しんでいる為に、それが、他人に違和感なり不快感なりを与えるものであるとは気づかないことになる。
さて、保育園、幼稚園、小学校、中学校の教育の中で、「心配り」ができる人間として育てるところに、かなり力を注ぐべき時代が来たのではないか。
ちまたでは、日本人らしい「おもてなし」の心を豪語しているけれども、「躾」や「道徳」の原点に戻り、教育レベルをしっかりと上げる努力を続けないかぎり、よき時代の日本精神文化は子供達に宿らぬことになる。
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