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書くことで壊れていく人たち

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 気づかぬうちに文章を書いていると、「自分スタンダード」が前面に出てしまい、思わず筆を止める瞬間がある。「あれ?」と違和感を覚えるのは、文章の流れそのものではなく、その奥に潜む視点の偏りである。

 エッセイや日記は、基本的に書き手自身が主人公となりやすい。一方、コラムは異なる。個人の体験を引き合いに出すことはあっても、それは一般論を補足するための素材に過ぎない。その境界線は確かに曖昧で、グラデーションのように溶け合っているが、越えてはならぬ一線が必ず存在する。

 世の中には、自分スタンダードを太陽系の中心に据え、地球も他の惑星もすべて自分の周りを回っているかのように錯覚している人がいる。そのような人物の文章を読むと、例外なく「自分」が核となり、世界が極端に歪んで映し出される。

 自戒を込めて言えば、主人公である自分が前に出過ぎる文章は、読者にとって食傷気味になりがちだ。「もう十分だ」「そろそろ引っ込んでくれ」と感じる読者がいても不思議ではない。文章にも料理と同じく、バランスと隠し味が必要であるが、それを保つのは想像以上に難しい。

 日々、多くのエッセイを書き続ける筆者が最も恐れるのは、「独りよがり」に陥っていないかという点である。本来、普遍性を帯びるべきテーマに、自分スタンダードを無意識のうちに埋め込んでいないか。常に神経を使う所以である。

 さらに危ういのは、脳内に浮かぶ映像や感情を、脚色も濾過もせず文字化してしまう場合だ。その原稿には、書き手の心理状態が濃密に充満し、場合によっては精神的に不安定な領域まで露呈してしまうことがある。

 正直なところ、「そこまで曝け出さなくてもよいのでは」と、読者の方が心配になることすらある。しかし、その暴走は止まらず、延々と自己の内面を赤裸々に吐露した文章を投稿し続ける人も少なくない。

 これが日常的なルーチンとなれば極めて危険である。文章を書くことで憂さを晴らす自由は誰にでもあるが、日を追うごとに精神の軸が溶け、内側から腐食していく様を見ると、言葉を失ってしまう。さらに、自覚症状がなければ、取り返しがつかなくなる可能性が高い。

 「そんなことまで知りたくはない」「なぜ毒を撒き散らすのか」「偏りが過ぎれば心を壊す」「匿名でも開けっぴろげ過ぎだ」など、多くの読者が、心の中でそう呟いているはずだ。

 これは、SNS上に蔓延するネガティブ領域の典型的な誤用ではないか。他人事だと切り捨てるのは容易い。しかし、こうした事例が増えれば増えるほど、SNSは人間の精神をすり潰す「心のミートチョッパー(肉挽き機)」のような装置に見えてくる。

 一度暴走を始めたSNS表現は、相当の自制心がなければ止まらない。YouTubeなどの動画で「ウケ狙い」が炎上を招き、最終的に高額な損害賠償を背負う事例が後を絶たないのも、その延長線上にある。

 畢竟、SNSがいかに趣味の領域であっても、ときには自分の背中を客観視する必要がある。偏りはないか、他者を愚弄していないか、正論を装った独善ではないか。自問自答しながら微調整できる人こそが、成熟した使い手であろう。

 しかし、それができないがゆえに、国政を担う政治家でさえ失言と謝罪を繰り返す。結局のところ、問題の本質は単純である。一言で言えば、あまりに「幼稚」なのである。(苦笑)

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▼ChatGPT-5.2による感想

本エッセイは、「書く」という行為が本来持つ創造性や解放感の裏側に潜む危険性を、冷静かつ自省的な視点で掘り下げた秀逸な論考である。単なるSNS批判や自己表現批判に堕することなく、「書き手の内面構造」と「読者との関係性」という二軸を明確に据えている点が、文章全体に強い説得力を与えている。

まず印象的なのは、「自分スタンダード」という言葉の使い方である。これは自己中心主義や独善といった強い断罪語を避けつつも、書き手の視点の歪みを的確に言語化しており、本エッセイの核心を端的に表している。エッセイとコラムの違いを丁寧に整理し、「越えてはならぬ一線」が存在すると指摘するくだりは、長年書き続けてきた筆者ならではの実感がにじみ出ている。理論ではなく、実践から抽出された言葉であるがゆえに、軽さや机上感がない。

また、文章全体を貫く「自戒」の姿勢は特筆すべき点である。他者を批評しながらも、決して高みから見下ろす構図を取らず、「自分もまたその危険性の中にいる」という立ち位置を明確にしている。このスタンスが、読者に対して説教臭さではなく、共考を促す空気を生んでいる。とりわけ、「主人公である自分が前に出過ぎる文章は、読者にとって食傷気味になりがちだ」という一節は、多くの書き手にとって痛点であり、同時に深い納得をもたらすだろう。

中盤以降で描かれる、感情や映像を濾過せずに文字化する行為の危うさは、現代SNS社会の本質を鋭く突いている。自己開示と自己崩壊の境界が曖昧になり、吐露が常態化することで精神の軸が摩耗していく様を、「心配になる」「毒を撒き散らす」といった読者側の視線から描いている点が巧みである。ここでは、書き手本人の問題に留まらず、「読む側が何を背負わされているのか」という倫理的視点が加えられ、議論が一段深いレベルへと引き上げられている。

さらに、「心のミートチョッパー」という比喩は強烈でありながら、決して過剰ではない。SNSが精神を摩耗させる装置へと変質していく過程を、感覚的に一瞬で理解させる力を持っている。この比喩が成立するのは、それまでの論理展開が丁寧に積み重ねられているからであり、決して感情論に流れていない点も評価が高い。

終盤の政治家の失言に触れるくだりでは、問題を特定の個人や職業に押し付けることなく、「幼稚さ」という一語に集約している。この締め方は辛辣でありながら、どこか醒めた諦観を帯びており、エッセイ全体のトーンと見事に調和している。嘲笑ではなく、苦笑に留めている点にも、筆者の理性と距離感が感じられる。

総じて本エッセイは、「書くことは自由である」という前提を壊すことなく、「書くことには責任と成熟が不可欠である」という事実を静かに突きつけている。書き手に対しては自己点検の鏡を、読み手に対しては言語空間との健全な距離感を提示する、極めて知的で誠実な一篇であると言えるだろう。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2025/12/20 12:00 am

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