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事勿れ主義の弊害と企業のブラック化

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 世の中には「事勿れ主義」を愛する人々が多く存在する。できれば周囲で事件事故や諸問題が起きないことを誰しも望む。しかし、全てを見て見ぬふりをするのは、人として如何なものかと思わざるを得ない。間違いは、間髪を入れずに正す必要がある。被害者は一秒でも早く救わねばならない。

 現実を見て見ぬふりをして逃げる人もいれば、自ら火の粉を被ることを懸念して事勿れに動く人もいる。それが隠蔽へとつながり、正義や正論が通らぬ虚構の世界を構築するのである。姑息な人間は、全てと言って良いほど「事勿れ主義」の中で生きている。他者の失態には牙を剥き、自らの失態は隠し通そうとする。極めて悪質で醜い人種である。

 「事勿れ主義」の人物は、変化を求めず、進化を求めず。自らの足元に漣が立つことさえビクつく小心者が多い。体裁だけを重んじ、軽石のようなプライドを膨張させているに過ぎない。そして、厚かましくも偽善者ぶる。このような人物は、頭も底意地も悪い人間である。彼らは、部下の盾となり責任を取る重みのある人物とは対極にあり、責任転嫁と証拠隠滅に走る苔むした軽石のような存在である。

 歪な人間は頭隠して尻隠さず。周囲へその失態ぶりを曝け出しているにも関わらず、本人は気づかない。企業においては、このタイプの人物を絶対に経営側に配してはならない。万が一、誤った人選をすると、歪な人間はさらに歪な人間と結託し、都合の悪い事は全て社員に押し付け、私利私欲の人間ばかりが屯し、会社の利益を剥ぎ取っていくのである。

 コンサル業を本業とする筆者が知る限り、上記のような軽石のような人間が二桁は存在している。彼らが関わる会社もスタッフも不幸のどん底の環境で仕事をしていることになり、誰しも幸福駅には到着せずに去っていく。

 巷の企業の役員会や取締役会(社外取締役も含む)などで、軽石軍団が正直に業務報告を行うはずがない。根拠なき虚偽だらけの事業計画内容を、なぜ社外取締役や株主が鵜呑みにするのか。それは、全て関わり合いのある人物も「事勿れ主義」であるからだ。「まあまあ、それで良しとしましょう!」という軽々な言葉で会議は終了する。

 しかし、それが良しとならぬ場合、責任の所在はどこにあるのか。面白いことに、業績悪化の場合、子供が学校を休む時に使う腹痛や熱発などの「仮病」と同様に、業績悪化の要因を部下の無能力、競合他社やコロナ禍の悪影響として片付けてしまいがちである。

 経営者としての資質に欠ける「事勿れ主義」の人物が存在する企業は、何十年経っても「事勿れ主義」が踏襲され続け、企業としてのブラック化が決定づけられる。とんでもないことであるが、その企業では「事勿れ主義」を美徳として、皆が虚構の世界に慣れ親しむことになってしまうのである。

 完全にご臨終の状態であり、黒く塗り潰された企業は、自己治癒力をもぎ取られ、真っ黒な灰と化してしまう。その時になって、株主や社外取締役が慌てて大騒動しようが、真っ黒な灰と化した企業の立て直しは不可能である。これまで先人が築いてきた歴史と伝統が一瞬にして姿を消してしまうことになる訳だ。

 以上が世の常であり、「事勿れ主義」がもたらす最悪のシナリオである。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイでは、「事勿れ主義」の弊害について鋭く批判し、その結果として企業がブラック化するプロセスを描写しています。以下に感想を述べます。

事勿れ主義の批判
エッセイは、「事勿れ主義」の問題点を明確に指摘しています。現実を見て見ぬふりをし、自己保身を優先する姿勢が、結果として企業全体を腐敗させる様子が描かれています。特に、問題を先送りにすることで隠蔽体質が生まれ、正義や正論が通らない虚構の世界が構築されるという指摘は、非常に説得力があります。

ブラック企業化のプロセス
「事勿れ主義」によるブラック企業化のプロセスについても詳細に説明されています。特に、経営陣が自らの責任を回避し、社員に問題を押し付ける様子や、虚偽の業務報告がまかり通る組織文化の描写は、生々しく現実味があります。また、このような企業では、社員が不幸な労働環境に置かれることが強調されており、読者に強い警鐘を鳴らしています。

社外取締役や株主への批判
社外取締役や株主が「事勿れ主義」に巻き込まれ、虚偽の事業報告を受け入れてしまう状況も描かれています。この点については、企業のガバナンスの欠如が強調されており、企業全体の健康状態を維持するためには、より厳格な監視と責任追及が必要であることを示唆しています。

結論
最終的には、「事勿れ主義」によって企業が自己治癒力を失い、最終的に崩壊してしまうシナリオが描かれています。この結論は非常に強烈であり、「事勿れ主義」の危険性を強く訴えています。企業が持続可能な発展を遂げるためには、問題を直視し、責任を果たす姿勢が不可欠であることが明確に伝わります。

感想
全体として、このエッセイは「事勿れ主義」の危険性を非常に的確に捉えており、その結果として企業がどのようにブラック化していくのかを詳細に描写しています。特に、自己保身を優先する人々の行動が組織全体にどのような悪影響を及ぼすのかを具体的に示している点が印象的です。このような批判的視点は、読者に対して「事勿れ主義」の問題点を深く考えさせるものであり、非常に有益な内容だと思います。
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写真・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/6/16 12:00 am

アウトローが、格好いい!?

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 アウトローが格好いいと思っている人も多い。幼い頃から、先生の指示とは真逆のことを行ったり、皆との協調性に欠けたり、とことん他者とは真逆のことを行い自己満足する、目立ち屋がりの子供もいた。

 大人になって思い起こせば、映画の猿の惑星を見ているようで、同じ日本人でありながら、チンパンジーもいれば、ゴリラもいたり、オラウータンもいたり。生まれる時にDNAに刻まれたように、人間もそれぞれに成長していく。

 昔から、洋画も邦画も正義の味方が主人公であり、アウトローな人間が悪さを行い、正義の味方が成敗してエンディングとなるものばかり。テレビ番組の水戸黄門も同様に、「この紋所が目に入らぬか!」で一件落着となる。

 しかし、今や多様化の時代となり、アウトローが本当に悪人かどうかのスタンダードが変わったように思えてならない。法令違反となれば犯罪であるが、大雑把で独りよがりで、ゴーイングマイウェイの人間を、安直にアウトローと評していいのだろうか。

 法令は、社会秩序を保つための鍵となる訳だが、果たして、その法令自体も怪しげに既得権益者を保護するために、昔から改正されぬまま、現在に至っている古すぎるものも存在する。

 本来ならば、既得権益者に対して都合が悪い、時代錯誤のような法令を改定すれば、今まで正当化されてきた既得権益者が全て法令違反となり、アウトローな領域にワープしてしまう。

 法令は神の思し召しではなく、我々と同様の人間が定めた文字の塊である。よって、全ての法令を絶対視すれば、どこかに納得のいかないもの、不公平なものが噴き出してくるはずだ。

 今まで見てきた映画やテレビドラマに登場してくる正義の味方が、本当に正義正論を唱え、世のため人のために尽力しているとは思えない。理由は、彼らの正当性を確保するために、都合の良い法の裁きを定めているからだ。

 アウトローの世界が国家であり独裁者となれば、とんでもないことだが、現在、他国で起こっている侵略戦争については、アウトローな人物や軍隊が一般市民を脅し、恐怖心を煽り雁字搦めにして、アウトローな行いを正当化している。

 自由国家とは真逆の専制国家。自由国家では正当なことが、専制国家では国家転覆罪のように解釈され、市民の自由を奪い、命までをも奪ってしまう。しかし、罰せられるのは、罪なき弱者の市民である。何とも納得し難い。

 権力を持つ人物に都合の良い悪事は、己を棚にあげ、保身のための悍ましいほどの法令を次から次へと定められては、粛清を続けていくのである。怪しげな法令によるジェノサイドを繰り返している。

 そんなアウトローなど、全然格好いいものではない。私腹を肥やすために国民に圧力をかけ、騙しては、大量の金銀財宝が独裁者やその仲間の懐に入っていく。

 法令の壁の右手は刑務所で左手は住宅地である。この不可思議な法世界について深掘りを進めていくと、法を定めた時代とは異なる現代において、不都合な法令も多々埋まっている。

 いつの間にか、世間のざわめきが消えた旧統一教会の詐欺事件。いつの間にか、雲隠れしようとしている政治資金不正事件の当事者たち。彼らは、正義正論を唱えるべき領域にいながら、法を犯している。それこそ、悪質なアウトローの領域に住むべき偽善者である。

 畢竟、アウトローの典型的な風貌で、ガサツで大雑把で不器用な強面の人物でありながら、いかなる場合も弱者救済に尽力するような人物が魅力的であり、味のある人間であり、映画やテレビドラマの主役として相応しくはないか。

 そんなアウトローが格好いいと、筆者は感じるのである。

▼DALL-Eが上のエッセイを読みイメージしたもの
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▼ChatGPT 4.0による評価

このエッセイは、アウトローのイメージとその社会的な認識について深く掘り下げ、複雑な視点を提供しています。著者は、アウトローが一般的に否定的な意味合いで使われることが多い一方で、その定義や認識が時代や社会の変化によって流動的であることを指摘しています。また、法令や権力に対する批判的な考察を通じて、アウトローの立場が必ずしも負のものではなく、時には社会の不正に対する抵抗の象徴となり得ることを示唆しています。

エッセイは、物語の正義の味方とされるキャラクターが、実際には法と権力によってその正当性が保証されているに過ぎないという点を批判的に捉えています。この視点は、社会における権力の構造と、それに対する個人の行動の意味を再考させるものです。著者は、アウトローが単に社会の規範や法令に反する存在としてではなく、既存の権力構造や不公正に疑問を投げかけ、時にはそれに抗うことで社会的な正義を追求する者として見るべきだと主張しています。

しかし、アウトローの肯定的な面を強調する一方で、エッセイは権力者や独裁者が行うアウトローな行為についても触れ、これらが本質的に不正であり、社会に対する搾取や圧迫を意味することを明確にしています。この二面性は、アウトローの概念が持つ複雑さを浮き彫りにし、単純な善悪の枠組みを超えた理解の必要性を示しています。

さらに、エッセイは現代社会における法令の役割とその時代錯誤な側面についても言及し、法が常に正義を代表するわけではないこと、そして時にはそれが社会的不正を正当化するために使われることがあることを批判しています。このようにして、著者はアウトローのイメージを再評価し、それが社会の不正に対する抵抗の形態である場合、その価値を認めるべきだと主張しています。

総じて、このエッセイはアウトローの概念に対する深い洞察を提供し、読者に法と権力、正義と不正に対する新たな視点を提供します。社会的な規範や法令に挑戦することの意義とリスクを探求しながら、アウトローが持つ「味」や魅力を再認識させる試みと言えるでしょう。

▼ChatGPT 3.5による評価

このエッセイは、アウトローに対する一般的な見解や価値観を探求しています。著者は、アウトローが単なる犯罪者ではなく、時には社会の不公正や不条理に立ち向かう存在として魅力的であると主張しています。彼らは、既存の法律や規範にとらわれない自由な存在として描かれ、その行動は時には正義のためになるという立場をとっています。

著者は、アウトローの定義や役割について独自の見解を示し、法や正義の概念が社会や時代によって変化することを指摘しています。また、権力者や既得権益者が法を悪用し、アウトローとしての行動を正当化することについても批判的な視点を示しています。

最後に、著者はアウトローのイメージを再構築し、弱者救済に尽力するような人物が本当の意味での魅力を持つと主張しています。このような人物が、映画やテレビドラマの主役として相応しいという視点が示されています。

総合的に、このエッセイはアウトローに対する様々な見方や考え方を探求し、その存在が社会や個人に与える影響について考察しています。議論の深みや幅があり、読者に新しい視点を提供する内容となっています。
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プロンプト・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/3/26 12:00 am

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