
焼きビーフンとなれば、新聞社時代の若き頃、大変世話になった画廊珈琲「宝塚」(熊本市中央区上通アーケード沿い)があった。週に二、三回は立ち寄る、自家焙煎コーヒーを提供する店だった。
オーナーは白髪のご老体と奥様のお二人で経営されていた。お二人は、その昔、アマチュアボーラーとして有名だったと聞き及んでいたが、原さんというお名前だった。
戦後、満州から引き上げてきた苦労人のお二人。現地で家族で作っていたという本格焼きビーフンなどが、同店の賄い食のメニューである。
ある日、「親生ちゃん、ご飯食べた?お腹空いてるんだったら、この焼きビーフン食べてごらん!」と、奥様がカウンター越しに、筆者へ皿山盛りの出来立て焼きビーフンをご馳走してくれた。
香りといい、食感といい、本格的な焼きビーフンである。「これは、絶品!」と一気に食べ切ると、それ以来、筆者が同店に足を運ぶ度に、必ず、焼きビーフンやその他賄い食をご馳走してくれるようになった。
多分、子供さんがいなかったので、当時、筆者を孫のように思い、日々来店を楽しみにしてくれるようになったのだろうと。
因みに、当時のコーヒー1杯500円。数十年前の話なので、新聞社入社したばかりの筆者にとっては、結構なお値段だ。
また、同店には近場の優良企業社長や重役が集う画廊喫茶店だったらしく、客層としては熟年ばかり。筆者のような若造はほとんどいない。
たまに、カウンター右隣で新聞社取締役が腰掛け、「仕事頑張ってますね!」と声掛けられ、赤面したことがある。何故なら、時間帯が午後1時半を過ぎており、完全にサボリとなる訳だ。
当時の新聞社取締役とは偶然に出逢うことが多く、休日に百貨店の中をウロウロしていると、「お疲れ様です。そのペーズリーのシャツはどこで?オシャレですねえ!」と声を掛けられたこともあった。
数年後、20代であったが、マンション住まいが無駄金だと思い、一軒家を建て、それから足が遠のいたのである。更に数年後起業したので、画廊喫茶で自家焙煎コーヒーを楽しむ余裕などなくなってしまった。
それから数年が経ち、同店が廃業し、お二人とも施設に入り、暫くして、他界されたという訃報が入った。脳裏には当時の同店カウンターで過ごした日々の映像が次から次へと湧き出し、皆の笑顔で埋め尽くされ、涙が止まらなかったことを思い出す。
よって、焼きビーフンを目の前にすると、必ずといって良いほど、当時の画廊喫茶「宝塚」を思い出してしまうのである。お二人の墓参りもせず、恩返しもできずに、喉に魚の骨が突き刺さったままの状態で現在に至っている。大変申し訳なく思うばかり。
同店の内装は古き昭和時代の典型的なカウンター席とボックス席1つの狭い空間であった。絵画コレクターだったオーナーなので、版画の巨匠、板極道の著者でもある棟方志功の作品や、高額な洋画の巨匠の作品が、何気に、週替わりで掛けられていた。
そんなこんなで、本日の焼きビーフンはセブンイレブンでゲットしたものだが、久しぶりに、ザ・夜食として電子レンジ500W2分で熱々のものを楽しませて頂いた。
また、調子に乗って、肉まん、春巻き、そしてメンチカツまで平らげた。メンチカツが不似合いな構成となっているものの、画廊喫茶「宝塚」の思い出を再び心に、まったりとしたミッドナイトディナーを楽しませて頂いた次第。
色々な思い出が詰まった、我が半生において、グルメの思い出は格別である。幼い頃から若き頃に経験した味覚は、何年経っても忘れることがないのが不思議だが、それほど若き頃は感性のアンテナがぐるぐる回っていたに違いない。
原さんご夫婦が天国から見下ろしているようだ。筆者が天国に行くのか地獄に落ちるのかは知る由もないが、先々天国へ行けるのであれば、雲の上で熱々の焼きビーフンがサーブされるような気がしてならない。
ごちそうさまでした。

▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、焼きビーフンをきっかけにして、かつて通った画廊喫茶「宝塚」の思い出が蘇るという構成になっています。単なる食の記録ではなく、食と記憶の結びつき、そして人との縁の温かさがじんわりと伝わる作品です。
1. 焼きビーフンという「記憶の扉」
エッセイの冒頭では、セブンイレブンで購入した焼きビーフンが登場しますが、それが単なる夜食にとどまらず、過去の思い出を呼び起こす鍵になっています。ここで重要なのは、味覚が記憶を呼び覚ます力を持っているという点です。
この点に関しては、プルーストの『失われた時を求めて』の**「マドレーヌ効果」**を思い出します。筆者が焼きビーフンを食べることで、「宝塚」で過ごした日々が鮮やかに蘇る様子は、まさに「味覚の記憶」が持つ力を表現しています。
2. 画廊喫茶「宝塚」の温もり
この喫茶店は、単なる飲食店ではなく、筆者にとっては**「心の拠り所」**のような場所だったのでしょう。オーナー夫妻は戦後、満州から引き揚げてきた苦労人でありながら、筆者に対しては親のような温かさを持って接していたことが伝わってきます。
「親生ちゃん、ご飯食べた?」
この何気ない一言に、店主夫婦の優しさや愛情が詰まっているのが印象的です。
さらに、客層も興味深く、喫茶店には優良企業の社長や重役が集まり、筆者は若造ながらもその場に混ざることで、何かしらの学びを得ていたのではないかと思われます。「ペーズリーのシャツがオシャレですねえ!」と取締役に声をかけられたエピソードも、ユーモラスでありながら、人と人との縁の面白さを感じさせます。
3. 「恩返しできなかった」悔恨の情
エッセイの後半では、「宝塚」が閉店し、オーナー夫妻が施設に入った後、やがて他界したという事実が語られます。そして、筆者はお墓参りもできず、恩返しもできなかったことを**「喉に魚の骨が刺さったような感覚」**として表現しています。
この比喩が非常に秀逸です。
何かが引っかかったまま、どうにもならない後悔の気持ちが読者にも伝わります。
4. 絵画と焼きビーフンの意外な組み合わせ
「画廊喫茶」というだけあって、店には棟方志功などの版画や高額な洋画が飾られていたというエピソードも印象的です。焼きビーフンという庶民的な料理と、棟方志功の版画という高尚なアートが、一つの空間に同居していたというミスマッチが、逆にこの店の魅力を引き立てています。
また、この要素が、単なる「食の記憶」ではなく、「文化の記憶」としても成り立っている点が面白いです。
5. 結び:「天国の焼きビーフン」
最後の一文、「雲の上で熱々の焼きビーフンがサーブされるような気がしてならない。」という表現が秀逸です。
このエッセイは、一見ノスタルジックな追憶のように思えますが、最終的には軽やかでユーモラスな締めくくりになっています。
「筆者が天国へ行くのか、地獄へ落ちるのかは分からないが」という一節も含めて、読者にクスリと笑わせる余裕があるのが、このエッセイの魅力の一つです。
総評
**「食と記憶」、「人と人との縁」、「恩返しできなかった悔い」**という三つのテーマが、焼きビーフンを軸にして巧みに絡み合っています。
また、過去を振り返るだけでなく、ユーモアを交えて未来(=天国の焼きビーフン)へと視点を移していく構成も秀逸です。
このエッセイを読んで、筆者の焼きビーフンへの思いが読者にも伝わり、どこか懐かしい気持ちにさせられる作品でした。
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文責:西田親生
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