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人格至上主義 vs 学歴至上主義

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 中学校時代には、各テストの成績だけが生徒の評価につながっているように感じ、違和感を覚えていた。毎学期、実力テスト、中間テスト、そして期末テストと、テストテストの連続であった。

 試験成績は、職員室前の廊下に1番から50番までの氏名と得点で掲示されていた。50人までだったかどうかは定かではないが、成績ランキングが数十人掲示されていたのは間違いない。しかし、今なら個人情報漏洩である。

 3年生になると県下統一テストがあり、このテストには県内のすべての公立中学校の生徒が参加していた。同テストを通じて、自分が県内でどの位置にいるかが分かる仕組みとなっていたのである。

 面白いことに、成績ランキングと共に、期待値という指標が示されている。期待値とは、本人の成績とIQを比較して、努力次第で成績があとどの程度伸びる可能性があるかを示す数値と言うが、確証のない数字であると感じていた。

 筆者が通っていた中学校はとにかく教育に熱心で、多くの優秀な友人がいた。そのため、数万人の生徒が受験する統一テストにおいて、全体20番以内に同中学校から4人もの男子生徒が入っている。

 担任の先生は、その4人のうち3人が筆者のクラスに在籍しており、彼らの成績に鼻高々であった。英語の先生だったが、眼鏡をかけており、「ひょっこりひょうたん島(NHK)」の借金バードに似ていたことを思い出す。

 当時の優秀な同級生たちは、素晴らしい職業に就いている。皆、各業界で活躍しているが、学歴至上主義が本当に子供たちのためになり、大人となり、社会人として成功するのか否か、今でも疑問に思うことがある。

 上述は、某県の県下統一テストというローカルな話である。しかし、全国を見渡せば、学歴至上主義の典型的な高校受験の世界が多く存在していた。より高度な教育を提供する進学校への競争が激化していた。

 筆者は分不相応にも、進学名門校について知識を得るために「灘高受験日記」という書籍を購入した。しかし、父の転勤や家族の事情、また私が次男だったことから、筆者の教育については無関心であったため、無意味な両親への抵抗となった。

 中学校時代の趣味は洋楽をこよなく愛し、ギターを弾いたり、友人とスウェーデン製のルアーを使って釣りを楽しんだりしていた。自転車が我々の唯一の移動手段だったが、県外への遠出などは御法度であり、「燕雀知らず天地の高さ」に甘んじていた。

 優秀な同級生たちは、とにかく真面目である。彼らは日々学びが趣味であるかのように努力を重ね、ブラックユーモアなどの冗談が通じないほど勉強していた。昨年、数十年ぶりに再会した友人は東大理III卒であり、当時と変わらず、真面目一本の大人になっていた。

 筆者は新聞社に勤務していたこともあり、お陰で、有能な先輩に恵まれ、多くを学ぶことができた。ジャーナリズムを信念とする先輩は鋭い視点を持っている。その先輩から学んだことが、現在に役立っているのだろうと、勝手に思い、感謝している次第。

 気の合う先輩たちからは、常にアドバイスをいただいた。宴会で歌うときにポケットに手を入れないように、名刺の受け渡しのマナー、食事中の態度など、とても細かいところまで教えてもらった。

 そこで気づかされたのは、人格至上主義である。

 先輩たちの学歴を見ても、超一流大学を卒業した人は少なかったが、それでも、社会人として経験を積んだ結果、見識の高さは筆舌に尽くし難く、近寄り難く、眩しいほどのジャーナリストの先輩の姿があった。

 しかし、それに反して、熊本市内には全国でも稀有なる高校閥の世界が存在している。学歴至上主義の典型的なものであるが、どんなに有名校を卒業しようが、周囲の学歴至上主義者を見ると、学歴至上主義が人格至上主義を凌駕することはないと見ている。

 それから数十年が経過し、今やAI時代に突入している訳である。

 AI時代では、学歴至上主義は通用しないのではないか。AI給与査定システムやAI人事勧告システムが世の中に普及し、そうした中立公正なシステムが依怙贔屓や個人的感情による人事異動を排除し、能力主義を重視する理想的な社会構造を築くのではなかろうか。

 従って、AI世界においては、人としての品格と実力が客観的に評価されような、人格至上主義が重要視される時代が到来することを、心より期待している次第。

▼ChatGPTによる評価

このエッセイは、人格至上主義と学歴至上主義についての洞察について考えさせられるものです。筆者は自身の経験と観察を通じて、これらの価値観について深く考え、AI時代における可能性についても触れています。以下に評価ポイントを示します:

具体的な経験の共有: 筆者は中学校時代から進学高校への選択までの経験を具体的に共有し、読者に共感を呼び起こします。このような個人的な体験を通じて、エッセイはリアルで人間味のあるものになっています。

人格至上主義と学歴至上主義の比較: エッセイは、人格至上主義と学歴至上主義の比較を通じて、どちらが将来の成功に対してより重要であるかについて議論しています。この比較は読者に考える材料を提供し、深い洞察を得る手助けになります。

AI時代における予測: 筆者はAI時代において学歴至上主義が通用しない可能性を示唆しています。AIの普及が進むと、個人の実力と品格が重要になるという仮説について考えを示しており、未来に向けた洞察を提供しています。

言葉の選択と流れ: エッセイは適切な言葉の選択と流れを持っており、読みやすく魅力的です。筆者の観点を明確に伝える能力があります。

総括すると、このエッセイは、教育と社会における価値観について深い考察を提供しています。人格至上主義と学歴至上主義の対比は読者に新たな視点を提供し、AI時代の可能性についての洞察も魅力的です。
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写真・文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2023/11/4 12:00 am

真偽を見極める、これ大事。

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 世の中には虚偽は溢れている。真実よりも虚偽が圧倒的に罷り通るのが、この世の中である。マスコミの報道を見ていると一目瞭然となるが、何とも理解し難い。

 自然体にてまっすぐ歩む人は、真実を好む。ところが、自分自身しか見えない視野の狭い人は、自身に不都合なことをひた隠すために、それに蓋をして虚偽を発する。

 真実は、ある時は善人を助け、ある時は悪人を責めることもある。虚偽は、善人に危害を及ぼし、悪人に加担することもある。

 真実を語る人は、言い訳をすることはない。虚偽を語る人は、言い訳を武器として闘わねば、虚偽が暴露される。だから、必死に虚偽を連発する。

 世渡りをする中で、「嘘も方便」と言いながら、いつの間にか、自分自身が虚偽に埋まってしまう人もいる。これが、一番怖いことである。底なし沼のように、虚偽から抜け出すには相当な人間改造が必要となる。

 責任逃れのために虚偽を発し身を守ろうとするが、反面、周囲にその虚偽の火の粉を撒き散らし、迷惑三昧を繰り返す。

 大切なことは、先ず、真実と虚偽を如何に見分けるかである。真偽を見極める眼を持つことである。

 虚偽を武器にして闘っていると、どんどん人相も変わってくる。悪い方に変わってくる。目つきや表情が、虚偽に手を染める前とは別人のように豹変する。

 大人になって、歳を重ねるほど形相が変わるのは、好ましいとは言えない。よって、真実をモットーに世の中を渡り、常に自然体であることが、波風立たずに穏やかな人生になりはしないか。

 虚偽を拡散するのは、実に簡単なことである。しかし、真実を拡散しようとしても、虚偽に潰されることもある。それは、虚偽を好む人間の方が圧倒的多数であるからだ。

 虚偽を虚偽であると証明するには、真実を真実であると証明するよりも難しい。真実は一つを語ればそれが真実であるが、虚偽が虚偽であることを証明するには、その数倍、数十倍の証拠固めが必要になってくる。

 ジャーナリズムは、そこで大きな役割を果たすことになる。しかし、このジャーナリズムを押し潰す独裁国家も多く存在している。

 皆さんがご存知の通り、独裁国家では虚偽のオンパレードが常態化している。僅か一人の独裁者のために、多くの国民が犠牲になり命を落とす。腹立たしい光景として、居た堪れなくなってしまう。

 しかしながら、虚偽で身を固めるような、さもしい人生を送るものではない。できることなら、人生において自然体で真実を手にしている人たちとの語らいを大切にしたいものである。
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写真・文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2023/10/22 12:00 am

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