
某日某所での出来事。
最初に出てきたのはサラダだった。皿に投げ込まれた状態の雑然とした野菜たち。その上に、どっぷりと濃い味のドレッシングが打っ掛け状態。食せば、ドレッシングを呑んでいるかのようで、野菜の味さえ分からなかった。
すべての料理に共通することは、盛り付けは最も重要なファクターであること。和食においても、「八寸」は芸術的な料理の物語である訳で、以前、吉兆やザ・リッツ・カールトン東京のレストランへ足を運んだ時に、その「八寸」の拘りと美しさに心を打たれた。
一つのボールに投げ込まれたサラダについて常々思うことは、「野菜には一つ一つ顔がある。その野菜たちの表情を優しく美しく盛り付ける心が欲しい。」と言うことだ。どんなに値段が安かろうが、その値段を設定しているのは店側なので、安いからと言って、食材を粗野に扱うことは大きな勘違いである。
残念なことに、上記の「野菜投げ込まれ・ドレッシングぶっ掛けのサラダ」について、その心なるものを伝えたら、仏頂面に豹変した料理人が居た。日頃から、目も落ち着かず挙動不審なところが見受けられるが、世の中を知らぬ、単なる視野狭窄な人間だから仕方ない。
例えばイメージ写真のようなサラダであれば、どれだけ楽しく食事が進むのだろうと、仏頂面の人間が気づくはずもない。更に、客の提案や意見を真摯に受け止め、ファンたるコンスーマーニーズに応える努力をしない所の進化はあり得ない。
近頃、「キレやすい人間」をよく見掛ける。瞬間湯沸かし器のように激高し、間髪を容れず言い訳三昧に浸る人間。他人への批判、評価は一人前のようだが、自分自身の所作なり、論理思考の不備な点を認めようとはせず、身の丈も分からず、ただひたすら正当化に走ってしまう愚かな人間である。
これは、生まれ育ち、そして躾が大きく影響を与えている訳だが、近くの人も呆れ顔で、助言してくれる人も居なくなったのだろうと考える次第。自我に目覚めた頃から時が経てば経つほど、捩れた人格はなかなか正常になるものではない。
捩れた人たちは、口を揃えて「見解の相違」と切って捨てる。しかしながら、「筋論」に対して「見解の相違」が認められるはずがないことも、分かっていない。何とも情けない愚か者が増えたものだと・・・。
「人間学」を疎かにして、民度が上がるはずがない。
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