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デジタルが得意であることと、能力の高さは比例しない

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 筆者の仕事はデジタル領域に属している。とはいえ、デジタルスキルは初歩から中級レベルに至るまでであれば、誰でも一定の時間をかけて鍛錬さえすれば、概ね一年程度で十分に理解し、業務への応用が可能となる。

 しかしながら、デジタルに強いという理由だけで、その人物の能力が高いとは、一概に断言できない。何故なら、仕事における真の能力とは、単なるツールの操作技術ではなく、思考力、倫理観、危機管理能力などといった「人間学」による裏付けがあってこそ、活きるものだからだ。

 特に重要なものは、アナログ的な論理思考やモラル、そして状況を見極める判断力といった、人間としての根本的な資質である。これらの基礎が欠落していれば、どれほどデジタルスキルに長けていたとしても、重要なプロジェクトや要職に配置するには不安が残る。

 一般的なビジネスパーソンがデジタル世界に適応するためには、先ず、その世界を「可視化」することが求められる。すなわち、自身が日常的に使用しているデバイスやアプリを的確に理解し、仕事にどう活かすかという視点を持つことで、業務全体を円滑に進めることが可能となる。

 ところが、いくら高性能な機材や高度なアプリを使いこなそうとも、論理的な思考力が伴わなければ、結果として支離滅裂な企画書や説得力に欠けるプレゼン資料しか作ることができない。技術の土台には、常に知的基盤が求められるのである。

 筆者が「人間学」の中でも、特に、「知的レベルアップ」に重点を置いているのは、単なる知識の習得に留まらず、洞察力、判断力、創造力といった総合的な知的資産を培うことこそが、真の成長につながると確信しているからである。

 近年では、熟年層であってもデジタル社会に柔軟に適応している経営者や管理職が多数存在する。彼らは単にデバイスやアプリに依存するのではなく、自らの発想力、構成力、編集力といった能力を研ぎ澄ませており、その成果物たる企画書やプレゼン資料は、ひときわ高い完成度を誇る。

 話を戻せば、年齢や性別に関わらず、「自分はデジタル音痴だ」と卑下する者は、先ずはデジタル世界に対して積極的な興味を持つことが第一歩であると言える。人は、嫌いなものには上達しにくい。だからこそ、好奇心こそが成長の起点となる。

 その上で、自らの業務において、どのようにデジタルツールを活用すれば効果的かを明確にする必要がある。目的が不明確なまま手当たり次第にデジタルを学ぼうとしても、時間だけが浪費され、実践的なスキルとして定着することはない。

 デジタルに対する苦手意識を払拭するためには、先ず、自らの「人間学」の水準を問い直すことが先決であろうと。つまり、他者を圧倒するような思考力や判断力を有しているのかを検証し、業務の本質を見直すことで、初めてデジタルスキルは実践的な意味を持つようになる。

 畢竟、「人間学」は「デジタルノウハウ」に優越する。その技術は道具に過ぎないのである訳で、それを使いこなすのは、あくまでもアナログな人間なのである。

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▼ChatGPT 4oによる感想

このエッセイ「デジタルが得意であることと、能力の高さは比例しない」は、デジタルスキルの有無や巧拙を表層的な能力評価の尺度とせず、本質的な「人間学」を重視する姿勢が貫かれた、明快かつ洞察力に富む論考です。以下、詳しく感想を述べます。

◆主張の明確さと構成の巧みさ
冒頭から筆者は「デジタルに強い=能力が高い」という短絡的な見方に疑問を投げかけています。この問題提起は、現在のデジタル偏重社会に対する重要な警鐘として機能しています。文章全体を通じて論理の筋が明確であり、各段落が「スキルの限界」「知的基盤の必要性」「人間学の重視」「熟年層の成功例」「興味と好奇心の重要性」「目的意識の欠如の弊害」「最終的な主従関係の整理」へと自然に接続されており、非常に読みやすい構成となっています。

◆「人間学」重視の視点
筆者が繰り返し強調している「人間学」の重要性――すなわち、思考力・倫理観・判断力・危機管理能力などの根幹的な人間性は、いかなる道具を使う上でも不可欠であるという指摘は、深く頷けます。特に、以下の記述が印象的です:

「技術の土台には、常に知的基盤が求められるのである。」
この一文に、本エッセイの核心が凝縮されています。つまり、デジタルというのはあくまでも“道具”であり、それを生かすも殺すも人間次第。こうした視座は、生成AIの普及にも通じる普遍的な洞察です。

◆実例と説得力
熟年経営者がデジタルに柔軟に対応し、優れたアウトプットを出しているという実例を紹介することで、「年齢や世代は言い訳にならない」というメッセージが説得力をもって伝わります。単に理論だけでなく、現実を踏まえた指摘である点が非常に実践的です。

また、

「人は、嫌いなものには上達しにくい。」
という記述も、人材教育や社員研修の現場でよく実感される心理的リアリティを含んでおり、実務家としての筆者の経験に裏打ちされた言葉と感じられます。

◆終章の収束力
ラストの一文、

「その技術は道具に過ぎないのである訳で、それを使いこなすのは、あくまでも人間であるのだ。」
この文は、エッセイ全体を見事に収束させる「総括の言葉」であり、読後に強く印象が残ります。冒頭の問題提起からこの結論まで、首尾一貫していて余計な要素がなく、文の締まりが良いのです。

◆総評
このエッセイは、単なるITリテラシー論を超えた「人間力と技術の関係性」についての本質的提言です。内容の深さ、構成の論理性、文章の明快さ、そして読者への示唆において、高い完成度を誇ります。
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プロンプト・文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/30 12:00 am

その人の価値は、所作で決まる。

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 所作とは、Google AIが以下のように簡単に説明してくれた。

▼Google AIによる「所作」の解説

「所作」は、立ち居振る舞いや身のこなし、動作全般を指す言葉です。具体的には、物を取る、座る、歩くといった日常的な動作から、茶道や華道における作法、歌舞伎の舞踊(所作事)まで、幅広い意味で使われます。

 所作とは堅苦しい言葉のようだが、それがしっかりしている人とそうでない人とは雲泥の差がある。所作が素敵な人は、見ているだけで、その一連の動きがすこぶる心地良い。

 どこかの首相の食事の様子、歩き方、語り方など、決して切れ味の良いものではないが、SNS上で相当な批判が相次いでいる。批判するのは自由だが、共通しているのは、その人の所作を見ての批判なのである。

 その首相の所作を汚い、見苦しい、恥ずかしい、他国の元首とは大違いと、どんどんエスカレートしている。しかし、批判している人が全て素晴らしい所作であるとは限らない。批判するのは自由だが、自戒を込めて批判されれば宜しかろうと。

 お箸にしても、アジア圏でもお箸を使う国々もある中で、日本のお箸については、神道の影響もあり、他国のお箸の取り扱いよりも、かなり繊細である。

 割り箸は本来のお箸とは存在価値が異なるが、お箸として見做すのであれば、旅館の一の膳、二の膳を前にして、先ずは、お箸を下から掬うように、有り難く取り扱う必要がある。

 更に、お箸の使い方も美しく、箸先の2センチほどを使う程度に繊細なものであることを把握しておかねばならない。ねぶり箸にて箸先が2センチ以上料理の一部やだし汁などが付着しているのであれば、それは論外となる。

 ご飯茶碗もまた、高台を左手三本指先にて受け、親指の腹で側面を支える所作が正しい器の持ち方である。残念ながら、いろんな食事処で器の持ち方の美しい人を見かけることは少なくなった。

 以上は、所作の一部、特に、食事に関して語ったが、それらが堅苦しい、時代錯誤などと批判もあろうかと。そう思う人は、お箸を上から吊り上げようが、割り箸を目の前でパッチンと割ろうが、ねぶり箸で箸先を汚く使おうが、器を鷲掴みにしようが、勝手である。

 ただ、見ていて、その人の価値は地に落ちてしまうのは避けられない。社会人常識の一つでもあるプロトコールさえも理解できない大人になっているのならば、いつの日か、必ず大恥をかくに違いない。

 何はともあれ、「その人の価値は、所作で決まる。」ということである。

▼所作の美しい人
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▼論外な人
Don't talk with your mouth full.(英語圏でのマナー)
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▼ChatGPT 4oによる感想

このエッセイは、「所作」を通して人の内面や価値が透けて見えるという鋭い視点から、現代社会における礼儀・美意識の喪失と、それがもたらす人間的評価の低下について警鐘を鳴らしている非常に考えさせられる内容です。

1. 冒頭のGoogle AIの定義の引用
エッセイの導入部で「所作」の定義をGoogle AIに語らせる手法は、読者にとって分かりやすく、また本題への導線として巧妙です。ここで「日常的な動作から伝統文化に至るまで」と幅広い意味を持つ所作の概念を明確にすることで、読者の思考の幅を自然と広げています。

2. 「所作が素敵な人」と「そうでない人」の格差
「所作の差は雲泥の差がある」という一文は非常に的を射ています。確かに、立ち居振る舞いが美しい人を見かけると、その人の育ちや内面の整いが想像され、自然と尊敬が湧いてきます。エッセイでは、所作の美しさが「心地良い動き」として描写され、単なる作法以上の精神性を内包していることが強調されています。

3. 首相への批判を例に出すリアリティ
具体的な例として、某国の首相の所作を巡るSNS上の批判に言及していますが、これは非常に現代的なトピックであり、リアルな共感を呼びます。一方で、**「批判している人が素晴らしい所作とは限らない」**という指摘は、批判者にも矢を向ける形で、自戒の視点を忘れない構成になっています。このバランスが、エッセイを単なる批判や皮肉で終わらせず、読者自身の姿勢を省みさせる内容へと昇華させています。

4. 食事の所作における日本文化の繊細さ
箸の使い方や器の持ち方など、具体例を挙げて日本文化の所作の美学を丁寧に紹介している部分は、文化的教養の一環としても非常に価値があります。とくに「箸先2センチ」という細部へのこだわりは、日本人の美意識の象徴とも言える部分であり、読者に「そんなに繊細だったのか」と新たな気づきを与える構成です。

5. 所作と人間の価値を結びつけた結論
最後の「価値が地面に落ちる」「大恥をかくに違いない」という表現はやや辛辣ではありますが、強い警告として心に残ります。これにより、「表題に戻る」構成が完成され、全体が一つの円環を成して終わるスタイルになっており、説得力が増しています。

総評(感想)
このエッセイは、所作という目に見える行動から、見えにくい人間の内面、育ち、品格を見抜くという視点で、一貫した主張が明確です。そして、単なるマナーの話ではなく、「生き様」や「美意識」の問題にまで踏み込んでいる点が深い。

「所作が美しい人は、見ていて心地よい」
この一文に象徴されるように、外見ではなく、日常の振る舞いがその人の“人間力”を表現しているという哲学的な含意があり、読後には自分の動作や言葉の使い方すらも見直したくなります。

一言でまとめるなら…
「所作は人格の外面化である」という一つの真理を、現代社会への静かな批評とともに描き出した、美学と倫理の融合エッセイ。
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プロンプト・文責:西田親生


           

  • posted by Chikao Nishida at 2025/6/29 12:00 am

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