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New mediaやMultimediaの歴史を紐解けば、IT・VW・VR・AR・AIの近未来がよく見える。

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 昔々の話だが、1980年代にNew mediaという言葉が世界を席巻した時代があった。直訳すれば最新媒体である。それからMultimediaにインタラクティブが備わり、約半世紀の時を経て、現在のIT・VW(Metaverse)・VR・AR・AIなどに繋がってくるのである。

 これらの様々な進化は、マイコンからパソコンの進化と連動して、人間の力、すなわち人力とは比較にならぬほどの高速にて四則演算を行ったり、データベースによる統計解析、文書作成など企業戦略に次から次へと導入され、大きな役割を果たしてきたのである。

 「パソコンとは何ぞや?」は、1980年代当時にデジタルに乗り切れなかった人たちの共通した質問だった。筆者は、1984年からMacを活用しており、それ以前にはマイコンも弄りまくっていた。よって、その質問に対して、パソコンの各機能と人間の五感を比較しながら解説していた。

 今でもデジタル音痴と豪語する人も少なくないけれども、パソコンの誕生より遥か昔に、AI(人工知能)との融合にて、人間に極めて近いロボットの構想は存在していた。手塚治虫作「鉄腕アトム」こそ最たるものであり、これからの世界を予言していたのである。

 結局、ベースは人間である。人間の頭脳(計算力・解析力・論述力・口述力)+視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などを、可能な限りパソコンに連動させることで、企業において業務合理化に拍車を掛けてきた。

 筆者主催のWell Done Basicでは、現在でもプレゼンのコンテンツ中に、左にパソコン、右に人間を描き、人間の頭脳、目、耳、鼻、口、手足などを比較させ、可視化することで「パソコンとは何ぞや」への回答としている。

 1994年の秋に日本上陸した商用インターネットが、強力な通信機能と多機能ブラウザを搭載することで、これまでのNew mediaやMultimediaを包括し、更なる進化形として現在の多種多様なプラットフォームに繋がっていく訳だ。

 人間をじっくりと観察することにより、パソコンやワークステーション、インターネット、ウェブサイトやSNSなどにピンと来なかったデジタル音痴の人たちが、「そうなんだ!」と覚醒し、パソコンがすこぶる親しみやすいツールであることが理解できるようになる。

 これまで真っ黒な雲で覆われていた脳内に木漏れ日が射し、それがきっかけで、デジタル音痴が源義経の八艘飛びのように、一気に覚醒することになる。「これまで好き嫌いで生きてきた数十年が馬鹿らしくもあり、勿体なかった!」と口を揃えて言うのである。

 そのツールやプラットフォームが何を意図して開発されたのか、かつ、過去にワープして現在までのそれらの変化、進化という歴史的な流れや旧媒体の変遷を学べば、近未来世界もチラチラと垣間見えるようになり、フォーカスが定まるのである。
chikaonishida-ICT


▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、New mediaから始まるメディアの進化を辿り、現代のIT、VW(Metaverse)、VR、AR、AIなどのテクノロジーがどのように発展してきたのかを描いています。その中で、著者の個人的な体験や見解も交えながら、人間とテクノロジーの関係性を詳しく説明しています。

まず、1980年代に登場したNew mediaという言葉から始まり、そこからMultimedia、インタラクティブ技術、そして現在のITやAIに至るまでの進化の過程が描かれています。この部分は、メディアの進化を理解するための背景として非常に重要です。著者は、パソコンの誕生とその普及が、人間の生活やビジネスにどれだけ大きな影響を与えたかを強調しています。

次に、著者の個人的な経験が述べられています。1984年からMacを使い始め、それ以前にはマイコンも利用していたということで、デジタル技術に早くから触れていたことが分かります。この経験を通じて、デジタル音痴と自称する人々に対しても、パソコンの機能を人間の五感と比較しながら説明することで、その理解を深める方法を取っていたことが述べられています。ここでは、教育や説明の重要性が強調されています。

また、手塚治虫の「鉄腕アトム」を引き合いに出し、AIとロボットの概念がどれほど昔から存在していたかを示しています。これにより、技術の進化は決して新しいものではなく、長い歴史の中で徐々に発展してきたものであることが分かります。

さらに、1994年に日本に商用インターネットが登場したことで、New mediaやMultimediaがさらに進化し、現在の多様なプラットフォームに繋がったことが述べられています。この進化の過程は、技術がどのようにして現在の形になったのかを理解するために非常に重要です。

最後に、学びの重要性が強調されています。ツールやプラットフォームが何を意図して開発されたのか、その歴史を学ぶことで、近未来の世界も見えてくるという考え方は、多くの人々にとって非常に有益な視点です。

このエッセイは、テクノロジーの進化とその背景を理解するための素晴らしい洞察を提供しています。また、著者の個人的な経験と見解を交えることで、読者にとっても親しみやすく、理解しやすい内容となっています。テクノロジーの歴史やその進化を学ぶことの重要性を再認識させてくれる一篇でした。
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書・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/7/15 12:00 am

街並みや道沿いに、看板広告は必要か!?

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 最近、久しぶりに熊本市内の道をあちこち車で走り回っていると、街並みや道沿いに大きな看板が目立って仕方ない。それも統一感のないものばかりで、異様な景色に見えてしまったのである。

 それから、熊本市内の東バイパスを通っていると、次から次に大きな看板が覆い被さるように現れる。はて、今の時代、このような大きな看板が本当に必要なのかと、少々、首を傾げてしまった。

 観光地に行けば、これまた看板広告が、花に例えれば八重桜のように道路沿いに鈴なりとなっている。

 これが日本らしいと海外からの観光客には物珍しく楽しいものだと言う。残念ながら、美しい景観とは言い難い。また、電線も埋設していないとなれば、蜘蛛の巣の中に、看板が入り乱れているようで、目がチカチカしてしまう。

 それから田舎に足を運ぶと、民家の壁に、昔取り付けられた錆びた金属製の看板が残っている。「〇〇〇〇綿」とか「たばこ」とか、風情がないとは言えず、懐かしさもあり、ぷっと吹き出し笑いとなってしまう。

 大阪の道頓堀に行けば、ご存知の通り、電飾広告が犇めき合っており、大阪らしい景観を創り出している。見方を変えれば、立派なアートでもあり、また、胡散臭くもあり。このアンバランスさが印象深い。

 しかし、ヨーロッパの古都を訪ねると、新都心ではビルの壁面のビル名やロゴなどはあるものの、日本のような派手な看板が密集したところは皆無である。電線なども埋設してあり、風通しの良い、写真であれば抜けの良い撮像例を見ているようで心地よい。

 現在、超高速通信の時代となり、インターネットも我々庶民生活に欠かせないものとなっている。この環境下で、昔ながらのでっかい看板広告が必要なのか否かを自問自答したのであった。

 あるビルの高所壁面には大型ビジョンを設置して、道路T字路突き当たりで停止する車から動画が垣間見れるようになっている。また、市内の繁華街に行けば、夜は電飾看板が歩道に星が降るほどに掲げてある。

 筆者は、看板広告を反対はしないが、余りに美観を損ねるようならば、統一感を持たせた看板に切り替えるなり、観光立県を目指すのならば、都市計画においては、風致地区を指定し、景観を美しくすることに尽力願いたい。

 今の時代、スマホはほとんどの人たちに不可欠なツールとなっている訳で、これまでの大きな看板広告などよりも、QR-CODEやAR(Augmented Reality/拡張現実)などを多用して、時代に合致したシンプルなものになれば、風通しが良く、見晴らしの素敵な街並みになりはしないかという気持ちもある。

 時には、電話やファックスにて、詐欺的な広告勧誘もあるようで、このような看板広告がこれからの時代に必要なのか否か。バス停のベンチ背もたれの広告、市電や列車内での看板広告やチラシ・ポスターなど、本当に必要なのか否か・・・。

 日本ならではの看板広告の慣習は、これからも延々と続くのだろうか。アーケード街の各店の前にある立て看板も、酔っ払いが蹴飛ばし壊すこともしばしば。何となく昔ながらの看板広告を見ながら、再び、自問自答を繰り返すのである。

 何はともあれ、景観の素晴らしい都市計画は、シンプルが一番である。熊本市の場合は、昔から道路行政がお粗末なために直線道路が少なく、スネイキーな道路や一方通行の箇所が多すぎる。

 道路が曲がりくねっていると、風通しは悪くなるのは当然であり、見通しも悪く、景観も抜けの悪い絵面となってしまう。そこに、不揃いの大きな看板が犇めき合い、どうしても息苦しい街の雰囲気となり、雑然としたものになってしまうのである。

▼ChatGPT(生成AI)による評価

このエッセイは看板広告に関する独自の視点を示しており、興味深いテーマに取り組んでいます。以下にいくつかの評価ポイントを挙げてみます。

1. 見出しと構成: エッセイの見出しは具体的であり、読者に関心を引くものです。また、構成も明確で、段落ごとに異なる観点に焦点を当てています。この構造は読みやすさを促進しており、論理的な展開があります。

2. 具体的な例と描写: 著者は具体的な場所や状況を挙げ、それに対する感想や意見を述べています。例えば、熊本市内や道頓堀、田舎など、様々な状況を通して、看板広告の存在に対する異なる視点を提示しています。

3. 論点の整理: 看板広告の必要性や美観を損ねないための提案についての論点が整理されています。例えば、観光立県の視点や都市計画の重要性、現代のテクノロジーの活用など、幅広い視点から問題を考えています。

4. 個人的な意見: 筆者の個人的な意見や感情が文章に反映されており、これが読者との共感を生む要因となっています。例えば、「ぷっと吹き出し笑いとなってしまう」など、筆者の感情が文章に表れています。

5. 言語と表現: 言葉の選び方や表現が適切で、読者が筆者の意図を理解しやすくなっています。また、比喩やメタファーを活用して、具体的な情景を読者に伝えています。

総括: このエッセイは興味深いテーマに対して独自の視点でアプローチしており、読者に考えさせる要素が多く含まれています。また、論理的な構造や具体的な例、個人的な感情の表現がうまく調和しています。
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写真・文責:西田親生


                               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/1/16 12:00 am

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