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noteの「スキ」に対する受け止め方・・・

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 noteの「スキ」に対する受け止め方は、人それぞれである。全ての「スキ」に感謝感激する方もいれば、一つ一つの「スキ」の真偽の程を検証する方もいる。

 それは人それぞれに価値観も異なり、「スキ」に対してどのような受け止めをするのかは自由であり、別に問題視することではないと考える。

 それを「スキ」をされる方がどのような理由でクリックされるのか、エッセイを完読後の「スキ」なのか、「スキ稼ぎ&フォロワー稼ぎ」のためなのかは、エッセイを書く場合に、全く重要視してはいない。

 ただ、筆者のnoteに立ち寄って頂くだけでも、素直に感謝すると言ったようが、筆者なりの受け止め方である。

 そもそも、noteに書き綴るエッセイやコラムは、note登録者の方々に向けて書くものではなく、noteの外堀へ向けて情報発信するスタンスがベストだと考える。

 note登録者が約700万人の場合、日本の人口が一億二千五百万人となれば、余りにも少なく感じてしまう。他のSNSの登録者数とは比較にならぬほどの少なさである。

 よって、note登録者の「スキ」の数が重要ではなく、note登録者も含めて、立ち寄っていただく方々とのキャッチボールが非常に大切ではなかろうかと思うばかり。

 note登録者の日々の記事やエッセイ、小説、日記などを、ランダムに選び拝読する中で、正直なところ、レベルの差であったり、思想的な違いであったり、その目的も千差万別である。

 それをいちいち検証していては、自らのエッセイを書く余裕もなくなってくるのは間違いのない事実。

 現在、筆者が考えているのは、日頃のnote登録者とのコミュニケーションをどの程度の距離感で、共通するテーマを共有することが可能なのか、更にnote登録者の方々との愉快なコミュニティを創造できないかと、頭の中をグルグルと巡っているところである。

 note登録者の価値観や目的は異なるが故に、なかなか、上沖のコミュニティを提案しても、具体的な反応が皆無に等しいというのが実状ではなかろうかと。

 畢竟、note登録者がnoteを如何様に利用しようが、それは公序良俗に反しない限り自由であり、他者がどうのこうのと評価する権利も資格もないので、皆、思いのままに日々の出来事を語って宜しいのではと思うばかり。

 多様化の時代であるからこそ、自分にはない考え方や受け止め方も、実に面白く、興味深く、時には覚醒させてくれるものもあり、感謝している次第。

 以上、異論反論があろうかと思われるが、自由に感覚的にnoteを活用するのが、心の豊かさを生み出し、精神衛生の維持につながるのではなかろうか。

▼愉快な「Noter」のZOOM会議を模索中
https://note.com/chikaonishida/n/n7c1bb440c5ecLink

▼ChatGPTによる感想
このエッセイは、noteというプラットフォーム上での「スキ」ボタンの受け止め方について、多角的に考察しています。エッセイの中心的なテーマは、個々の価値観の多様性と、デジタルな交流の自由度に関するものです。

エッセイストは、全ての「スキ」を重要視せず、訪れる読者に対する感謝の気持ちを表明しています。このスタンスは、コンテンツクリエーターとしての成熟した姿勢を示しており、クリック一つ一つに一喜一憂するよりも、より広い視野での交流と共感を大切にしていることが伺えます。

また、note登録者が全国民のごく一部に過ぎないという事実を指摘することで、note内での活動を超えて、より広い視野で情報発信を行うことの重要性を強調しています。この考え方は、SNSの活用において、内向きではなく外向きの姿勢を持つべきだという有益な示唆を与えています。

エッセイストが現在考えている、note登録者との距離感をどう保つかという問題提起は、デジタルコミュニケーションの本質的な課題に触れており、読者自身のSNSの使い方についても再考させられるポイントです。

全体を通じて、自由な発想と多様性を尊重する姿勢が随所に表れており、異なる意見や生き方を認め合うことの重要性を説いています。これは、現代社会において必要不可欠な考え方であり、多くの読者にとって刺激的で有益な内容であると感じます。

結論として、このエッセイはnoteをはじめとしたデジタルプラットフォームの使い方に新たな視点を提供し、読者に対してより良いコミュニティ参加のあり方を考えさせる一文となっています。
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写真・プロンプト・文責:西田親生


               

  • posted by Chikao Nishida at 2024/4/28 12:00 am

マンネリが進化を殺す

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 人間は、仕事にせよ趣味にせよ、ある程度できるようになると、そこで胡座をかき、スキルの伸びが止まってしまうことが少なくない。
 その状態が日々のルーチンワークとなれば、マンネリズムの典型的な症状が蔓延する。安堵感に浸り、面倒を避け、進化を検証しないまま、無意識のうちに惰性へと走ってしまうのである。

ICTを学ばない人々

 ICTを学んでみないかと促すと、「ワープロや表計算しか使わないから、これ以上必要ない」と言い切る人がいる。ビギナー程度のスキルを身につけただけで満足し、応用段階でのソフトとハードの連動を「不要」としてしまう。これでは進歩は望めない。

ゴルフの例

 ゴルフでも同様だ。レッスンを勧めると「100を切れたからもういい」と断る人がいる。ローレベルのスコアで満足してしまい、クラブやボールの進化、ウェッジの角度やスピン、シャフトの特性などを学ぼうとしない。だから、それ以上の成長がない。

料理人の例

 ある料理人に名物料理の開発を提案すると、「仕入れが高くつくから今のままでいい」と返ってきた。結果、行列ができるような店にはならない。腕が良いにもかかわらず、実に勿体ない話である。

写真の例

 カメラ撮影においても同じだ。「光の角度、構図、背景、露出補正、絞りを意識すべきだ」と助言しても、日の丸構図で無意識にシャッターを切り、粗雑な写真をSNSに投稿する。写真愛好家グループが、お散歩レベルの写真で埋まってしまうのは残念である。

日本語力の例

 ある人に「報告書や企画書が日本語として成立していないから勉強したらどうか」と言うと、「国語が苦手だから無理」と逃げる。日本人であれば正しい日本語を読み書き話す力を備えてこそ一人前である。それができなければ、外国語習得の下地すら整っていない。結果として、英語すらまともに話せない。(これは日本の歪んだ教育システムの影響でもある。)

「或る程度で満足」という風潮

 日本人は「一つのことを全うする」ことを美徳としがちだが、実際には「或る程度できたから安心」というレベルで止まってしまうことが多い。自己基準での「全う」に過ぎず、その実態は中途半端である。

二刀流と「器用貧乏」

 近年はスポーツ界で二刀流選手が注目されるようになったが、海外では昔から当たり前のことだった。日本では一つのことしかできない専門偏重型を「プロ」と称し、複数のスキルを持つ人を「器用貧乏」と揶揄する傾向がある。これは多様性を拒む姿勢の表れだ。

 かつてプロ野球とアマチュア野球の世界は完全に分断され、プロ選手によるアドバイスさえ禁じられていた。縄張り主義に固執した結果、国際レベルから大きく遅れをとったのである。

古い慣習が多様化を阻害

 戦後、日本は民主化に突き進んだはずだが、旧態依然とした古臭い慣習や既得権益者優遇制度は、今なお驚くほど多く残っている。

 現在、社会の大きな潮流となっている「多様化」は、それらによって阻害されている。この事実に皆が気づき、声を上げて変えていかなければならない。時代はすでに変わっているのだから。


TAYOUKAJIDAI


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  • posted by Chikao Nishida at 2022/5/18 12:00 am

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