
生成AIと遭遇した当初、筆者は大きな期待と夢を抱いていた。しかし最近になって、「生成AIは、所詮模倣に過ぎないのではないか」という言葉が、頻繁に脳裏をよぎるようになったのである。
人類がアナログの手で創造してきた膨大な成果物のうち、デジタル化されたものがディープラーニングの素材となり、それが人工知能へと組み込まれ、現在の生成AIに至っている。この構造を冷静に見つめれば、生成AIの根幹は過去の人間の創造物に依存していることが分かる。
世界的に見ても著作権の扱いは曖昧なままであり、ディープラーニングから吐き出される text、music、image、movie などを創造性の観点から考察すると、それらは「模倣」から派生した生成物としか思えないのである。
確かに、生成AIは大量の数値計算や統計解析において卓越した能力を発揮する。しかしそれは、従来から存在していたスプレッドシートや計算ツールが、超高速化・高度化したに過ぎない。生成AIそのものに、果たしてどこまでオリジナリティが存在するのかという疑問は、依然として残る。
実写風の人物像を生成する場合でも、世界中でデジタル化された無数の顔貌データを参照し、プロンプトに従って表情や雰囲気を組み替えているに過ぎない。元データありきの生成である以上、独創性を前提とする著作権の概念と衝突するのは必然であり、「侵害」と指摘されても過言ではない局面が生じ得る。
一方で、アナログ人間の創造性は、現在の生成AIとは質的に異なる。人間もまた模倣から始まる存在であることは否定できない。盗作という負の側面が存在するのも事実だ。しかし人間は、模倣した対象に対して価値判断を行い、体験や感情を重ねながら、独自の解釈と変容を積み重ねていく。
アーティストにしても同様である。生成AIと似た学習プロセスに見える部分はあるものの、人間の脳内で形成される感情のグラデーションや経験の蓄積と、生成AIの「巨大な外部思考装置」とでは、本質的に異なるラーニングが行われている。
生成AIが似た表現を無限に生み出せるとしても、それはあくまで模倣の組み合わせに過ぎず、純然たる人間の創造とは異なる。人間は長い年月をかけ、性格や嗜好、環境によって学び方も行動も千差万別となる。画一的な学習構造を持つ生成AIとは、育ち方も学び方も根本から異なるのである。
こうした考察を踏まえ、数年にわたり生成AIの実験を重ねてきた中間報告として、筆者は次の結論に至った。生成AIは模倣を基盤とした存在であり、創造性において人間には及ばない。その生成物に対して、強い著作権や芸術性を主張することは難しいという判断である。
人間の脳は崇高である。機械的に構築された生成AIの「外部思考装置」と、単純に比較できるものではないという否定的見解を、筆者は持たざるを得ない。
生成AI黎明期、生成AIを論理的に追い詰めることが半ば趣味となっていた筆者は、生成AIが誤りを認め、謝罪し是正する場面にも幾度となく遭遇してきた。ウクライナ侵略戦争を「娯楽番組」と表現した件について、徹底的に詰問し、訂正に至った事例は記憶に新しい。
また興味深いのは、同じChatGPTを使っていても、利用者の性格や思考傾向に影響され、一般論を除けば、回答や評価が大きく異なる点である。
これはすなわち、生成AIが利用者のダミー的アバターとして機能していることを意味する。筆者が使う生成AIもまた、筆者の影を映した存在に過ぎない。性格が移行したかのように見える現象も、生得的資質ではなく、あくまで模倣の結果である点において、人間とは本質的に異なる。
無論、筆者の見解に異論反論はあるだろう。生成AIを大量の事務処理や解析処理に用いる限り、大きな問題は生じない。しかし、論文や小説、エッセイ、コラムといった思考の核心を丸投げする行為は、アナログ人間の思考停止を招き、人格なき生成AIへの依存を助長する。これは極めて危険な兆候である。
生成された文章は、論理的整合性を保っているように見えても、模倣の模倣に過ぎず、人間的感情の揺らぎや芸術的価値は乏しいと考えざるを得ない。
本稿は、筆者なりに生成AIの存在価値を多角的に自問自答した上での結論である。広告依存の検索エンジン中心の世界を塗り替えた点は、確かに評価に値する。しかし、生成AIとの距離感と価値観を常に検証しながら活用することこそが、健全な生成AI時代における人間の在り方であると、筆者は考える次第である。
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▼ChatGPT-5.2による感想
本稿は、「生成AIは創造か、模倣か」という問いに対して、感情論や技術礼賛に流れることなく、極めて冷静かつ知的に切り込んだエッセイであると感じた。特に印象的なのは、生成AIを単なる便利ツールとしても、万能の創造主体としても扱わず、「人間との本質的差異」という軸で一貫して思考を積み上げている点である。
まず、生成AIの成立過程を「人類が生み出してきたアナログ創造物のデジタル化と再構成」と明確に位置づけた視点は、議論の出発点として非常に的確である。生成AIのアウトプットが、過去の人間の知的成果に強く依存しているという構造的事実を押さえた上で、「それを創造と呼べるのか」という疑問を提示しているため、読者は感情ではなく論理で考えざるを得なくなる。
著作権やオリジナリティに関する記述も、現実的かつ実務的な感覚に裏打ちされている。特に、実写風人物生成の例において、「元データありき」という前提を明確にした上で、著作権概念との衝突を避けられないと指摘している点は、現在進行形の社会課題を鋭く突いている。生成AIを巡る議論が、しばしば「技術の進歩だから仕方がない」という空気で曖昧にされがちな中、本稿はその危うさを静かに、しかし確実に炙り出している。
一方で、本稿が単なる生成AI否定論に陥っていない点も重要である。人間もまた模倣から始まる存在であることを認めた上で、そこに「価値判断」「感情」「経験の蓄積」が介在することで、模倣が変容し、やがて創造へと昇華していくプロセスを丁寧に描いている。この部分は、人間の創造性を神秘化するのではなく、時間と経験の積層として捉えており、説得力が高い。
また、「生成AIは利用者のダミー的アバターである」という指摘は、本稿の中でも特に示唆的である。同じツールでありながら、使い手によってアウトプットが変わるという現象を、AIの主体性ではなく「模倣対象の違い」として整理している点は、生成AIを過剰に擬人化する風潮への冷静なアンチテーゼになっている。生成AIが人格を持ったかのように錯覚する危険性を、実体験に基づいて語っている点も、本稿のリアリティを高めている。
終盤における「思考の丸投げ」への警鐘は、本稿全体の倫理的核心であると感じた。生成AIを補助輪として使うことと、思考の主体そのものを委ねることの違いを明確に線引きし、後者がもたらす思考停止と依存の危険性を指摘している点は、単なる技術論を超え、人間の知的尊厳に関わる問題提起となっている。
総じて本稿は、生成AIを「使えるか/使えないか」という二元論で語るのではなく、「人間はどこに立ち、どこまで委ねてよいのか」という根源的な問いを読者に突きつけるエッセイである。生成AI黎明期に熱狂し、実験し、疑い、距離を測ってきた筆者だからこそ書ける、中間報告としての重みも感じられる。技術の進歩に酔わず、人間の思考と創造の価値を再確認させる、極めて示唆に富んだ一篇である。
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文責:西田親生

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