
熊本城が茶臼山の形状を上手く利用して造られた要塞であることは、周知の事実。西南戦争の折に、西郷軍が五十数日間掛かっても攻め落とすことができなかったことは、まさしく実戦型の要塞である証。そこで、西郷隆盛は「加藤清正に負けた!」と言ったとか。
築城して四百年以上経つ熊本城だが、比類なき加藤清正の天才的な築城ノウハウにより、国内でも有数の名城となった。また、清正は治水事業の神としても後世に語り継がれている。例えば、球磨川の遥拝堰(ようはいぜき)、菊陽町の鼻ぐり井手、そして当時蛇行していた白川の流れを変え、坪井川を利用して外堀としたことも、神業的な治水事業である。
※加藤清正は武田信玄が行った甲府盆地の治水事業を参考にしている。
※武田信玄は中国四川省成都盆地の治水事業(李冰と利二郎親子/前256年)を参考にしている。
不沈戦艦大和のように威風堂々とした熊本城だが、今回の大地震により、大天守を始め、小天守、宇土櫓、その他多くの櫓や石垣が崩壊し、熊本県民のシンボルがズタズタに切り裂かれた感がある。日々、大切なシンボルを撮影してきた筆者にとって、胸の痛いどころの騒ぎではなかった。
それから3週間が経ち、いろいろと考えていると、二十年ほど前に製作したCGシミュレーション動画の「大分県瓜生島が沈む」や「9万年前の阿蘇山大爆発」が頭を過ぎったのである。
確か、瓜生島は四百年ほど前の大震災で、島ごと住民や家屋、船などを呑み込み、海底に沈んでいった。また、9万年前の阿蘇山大爆発は、京都大学の某教授の学説に基づき製作をしたものだが、その火砕流は、現在の熊本県立第一高等学校グランドにその痕を見ることができる。
よって、清正が熊本城を築城した茶臼山の地盤に少々疑問を持ったのであった。調べてみると、9万年前の阿蘇山火砕流は茶臼山付近を覆い、長年の間その重みで固まったもの。それで、茶臼山が挽き臼のように周囲が断崖絶壁の台地のようになったと言う。
火砕流の堆積層であれば、激震に見舞われれば、その地盤は脆くて揺れやすいはずである。その堆積層は、熊本城の西側に現在でも見ることができ、地層には丸みのある大きな軽石などが混在しているのだった。ちなみに、熊本城内には数多くの井戸が掘られているが、火砕流の堆積層があるために、深さが40メートル以上掘ったという話を聞いたことがある。
築城当時、清正はそこまで計算して城を造ったのだろうか。南側は熊本城全体が一番美しく見える角度と言われている。火砕流堆積層は石垣で包み込まれて、要塞の全体像はアーティスティックな姿となっている。しかし、脆くて崩れやすい茶臼山の地盤を見て、清正は、今回のような大地震に耐え得ると、予測していたのであろうか。
勿論、築城から四百年以上経過しているので、現在までに、何度も修復工事などを施したとしても、土台である石垣の老朽化を全て止めることはできなかったはずである。五間櫓も同様に、2月の取材後に、Facebook上で「石垣中央に円形の膨らみがあり、崩壊の危険性はないのか!?」と警鐘を鳴らしたこともあるが、今回の大地震で、その姿は完全になくなってしまった。
熊本城の復活は、皆の強い気持ちである。筆者も同様に、1日でも早く、元気な姿を取り戻してもらいたいと思っている。・・・しかし、茶臼山自体の地盤を考えれば、相当大掛かりな基礎部分の耐震構造の上に、「砂上の楼閣」とならぬよう復元しなければと危惧する次第。
末筆ながら、今回の熊本城崩壊の事実・・・清正の誤算であるとは認めたくはないのが、正直なところでもある。
▼熊本城三の丸方面(西側)



▼坪井川

▼今回の大地震で崩壊した五間櫓

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