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祖母や母親のレシピを正確に伝授することは、子々孫々の幸福なる食育に繋がる。

▼写真はイメージ:熊本ホテルキャッスルのビーフカレー

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 今回は、筆者の反省の意を込めての記事となる。

 大人になっても、幼い頃に祖母や母親が作ってくれた料理は、如何に粗末なものであっても、愛情が篭っており、特に美味しく感じていたもの、慣れ親しんでいたものは、今でも急に思い出しては、食したくなるものだ。

 一番インパクトがあるのは、母親の「手作りカレーライス」。ルウから作るので、濃厚だがサラリとしており、辛さもほどほどで、とても旨かった。因みに、欧風と和風の中間的なものだったと記憶している。

 二番目に印象深いものは、祖母と母親が作る、「水餃子」。当時、自宅は結構大きな家だったので、常に、下宿の学校の教師ばかり4人、皆、2階に住んでおり、朝食と夕食は、家族も入り混じっての、戦争のようであった。因みに、母親は毎日朝から昼弁当を、家族分も合わせて7つほど作っていた。

 自宅は2階建ての母家と広いベランダの向こうに1階建ての離れがあったが、家族合わせて11人が住んでいたことになる。よって、「水餃子」が夕食のメインディッシュとなる時は、その日の午後から、祖母と母親とが約200個ほどの水餃子の準備をしていた。(筆者も手伝っていた)

 特に下宿の先生たちの食欲は凄かった。今思えば、不思議な下宿スタイルにて、土曜日の夕食には、一升瓶の日本酒がテーブルの横にあり、皆がワイワイガヤガヤ状態で夕食を楽しんでいたのだった。(酒の賄い付き下宿って、あり???)よって、玄関先には何本もの一升瓶が並べられ、酒屋さんの受け取りを待っていた。

 三番目は、「黄色いたくあんのキンピラ」のような炒め物。これは、想像ではあるが、少々酸っぱくなりつつあるたくあんを、甘辛く炒めることで、おいしいおかずに変身させる、祖母のアイデアだったように思える。所謂、おばあちゃんの知恵袋である。

 四番目は、「とじこ豆」と呼ぶ、菓子。熊本県北部の農村では、現在も作っていると思うが、先般、或る道の駅に足を運んだ時に、それを発見したのだった。甘い小麦粉の柔らかい生地で、大豆をとじこめたという意味で名付けられたらしい。

 現代版の「とじこ豆」は、大豆以外にピーナツが入ったものもあり、バリエーションはかなり増えている。笑い話になるが、幼い頃、この菓子の名前を、筆者は「としこ豆」と間違って覚えていた。実は、母の名前が「俊子」なので、空耳アワーではないが、大人になるまで、勝手にそう呼んでいた。

 五番目は、モンゴル料理かどうか分からないが、父親が作る「シャルピン」という、小麦粉で千枚焼きのような薄いパンを焼き、熱々の牛乳スープに漬けながら食べたのだった。小麦粉を練り、円形に延ばし、その表面にごま油を塗り、棒状に丸めて、捩る。更に円形に延ばしたものにごま油を塗り、再び棒状にして、捻る、それを数回繰り返したものを、鉄板で焼いていた。

 六番目は、「素麺のオリジナルつゆ」である。摩訶不思議なものだったが、トマト嫌いの父親が、トマトベースにて、唐辛子、醤油などを加えて作る、ピリ辛で酸味のあるもの。冷たい素麺を漬けて食すと、食欲が増し、筆者一人でも素麺4束を軽く食していた。

 七番目は、「母親手作りのサーターアンダギー」である。ご存知の通り、沖縄名物のものだが、兎に角、1個が大きかった。暇さえあれば、子供たちのおやつにサーターアンダギーを作っていたように思える。外はサクサク、内はフワフワ。油分も適量にて、すこぶる旨かった。

 八番目は、父親と母親の合作、「ハヤの甘露煮」と「鯉こく」&「鯉の洗い」。父親の趣味はゴルフと釣り。特に、釣りは付き合わされることが多く、鯉の爆弾釣りの餌の材料となる赤土やら蛹、粟、酒粕、ビスケットなどを前日準備するのは、筆者たち子供の仕事であった。海釣りも結構一緒に行き、チヌやキスなどの釣りに没頭した。

 九番目は、「父親と母親の合作すっぽん料理」。これは、数年に一回くらいではあったが、子供である筆者は苦手で、逃げて回って、ほとんど食べることはなかった。しかし、大人になり、プロの凄腕料理人のすっぽん料理を食して、腰を抜かすほど、旨かったことを思い出す。東京田村で修行したと言っていたが、包丁捌きが素晴らしかった。

 最後、十番目は、母親手作りの「ベロダゴ」と呼ぶ、舌のように分厚く平べったい、うどんのような団子。豚汁のようにして食すのが普通だが、時には、それに甘味を加えて、デザートとして食していたことを思い出す。当時癖になった筆者は、お菓子を買うより、それを毎日のように強請っていたいたのだった。

 しかし、実は、大人になった筆者の大失敗となるのは、上述の料理や菓子などのレシピを、祖母や母親が生きている内に記録していなかったのである。勿論、風味、食感、喉越しなどは、全て覚えているものの、作り方を覚えているのは「水餃子」と「シャルピン」の二品しかない。

 随分以前の新聞だったか、或る国では「餓死者」が急増しているという記事を読んだことがあった。昔からの保存食の作り方の伝承がなされなかったことが大きな要因であるとあったが、筆者のように、子供が祖母や母親などの料理のレシピを受け継がなかったのだろうと・・・。

 美味しいものは、どの時代も美味しいに決まっている。だから、鰻屋さんや蕎麦屋さんなどは、創業100年を超える老舗が多く存在している。甘じょっぱいタレと鰻は最強であり、匂いだけでご飯が入る。また、十割蕎麦を塩だけで食しても至福の極みとなる。頭に思い浮かべるだけで、胃の中が嵐になってしまう。

 今回のお題である「祖母や母親のレシピを正確に伝授することは、子々孫々の幸福なる食育に繋がる。」としたのは、何となく、ご理解頂けたのではなかろうかと・・・。

 筆者は、食文化の伝承にて、最大の失敗をした人間の一人なので、皆さんは、今の内に、おばあちゃんやお母さんの料理レシピを、しっかりと記録して、子々孫々に伝えて頂ければと考える次第。

 食は、人生を変えるほどの魔法の力を持っている。


▼写真はイメージ:ざる蕎麦とおにぎり&天ぷら(熊本ホテルキャッスル)
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▼写真はイメージ:Foody Oneの人気弁当の一つ
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▼写真はイメージ:サーターアンダギー(沖縄公設市場)
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写真・文責:西田親生

                 

  • posted by Chikao Nishida at 2022/6/4 12:00 am

息子が父親を超える時・・・父親の大きな背中に圧倒されていた子供心を思い出しつつ、ある日突然、父親を超える時がやってくる。

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 これは飽くまでも筆者の体験談であり、個人的な見解である。よって、今回の検証では、些か、己を欲目で見ているのは否めず、冒頭よりお断りしておきたい。

 先日、文書データを整理していたところ、2013年に他界した父親の自叙伝(終戦前夜編)のデータを見つけたので、暫く読み返すことにした。その自叙伝は、法曹界にいた父親が退官後にMacを使い出し、それから本人が試しに書き綴った回想録であった。

 結論から申し上げれば、幼い頃から、どうしても超えることができなかった大きな背中の怖い父親を、文章力という点では、或る程度そのレベルに並び、やや超えたのではないかと感じている。(根拠なく感じている)

 その自叙伝を読めば読むほど、父親が書き綴る文章の表現手法や流れ、登場人物の描写などが、筆者のそれにすこぶる酷似していることに気付かされたのだった。そこで、DNAの不思議さを再認識した次第。

 社会人となった頃の、父親の言葉を思い出す。「何かを報告する場合、結論が先。補足説明は質問がある場合に行えば良い!」、「文章は三段論法、起承転結は勿論だが、すこぶるシンプルに、理路整然と話すこと!」であった。

 法曹界にいた人間なので、常に合理性、整合性を重んじる思考回路が働き、数学の証明問題を解くかのような論理展開であることは承知していた。しかし、これは回想録なので、小説のようで、その当時の父親や友人のリアルな動きが頭に浮かんで来た。

 筆者にとっては、大切な父親であるけれども、その人生や考え方に対して、全て賛同することはない。しかし、人としての「道」だけはしっかりと教わったので、そこは、感謝の言葉以外はない。

 父を看取ったのは、勿論、筆者であるが、その時、大きな背中がこれほどまでに小さくなったのかと、目を疑った。何につけても頼り甲斐のある、立派な父親であったけれども、その大きな背中は自動的に筆者にバトンタッチされたのかと・・・。

 残念ながら、未だに自覚がないところが、恥ずかしいの一言に尽きる。

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※以下は、父が大東亜省(現在の外務省)の文官として内蒙古に出向し、玉音放送を聞かされた直後の話となっている。よって、玉音放送(終戦)から1年後の1946年に父は帰国、その後、法曹界を選んだ。

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▼父(当時86歳)の自叙伝の一部(玉音放送直後の出来事)

 同期の橋本の話では、明安旗にはソ連軍が入り込んで来て、とても行けそうにない。よって、現地から無事に引っ返す方法を模索したが、ソ連の機械化部隊を避ける為には、馬が一番良いとの結論に至った。

 一番目の馬には独身の女史、二番目の馬に橋本、そして、しんがりとして私が馬に乗り、正白旗まで行くことにした。しかし、途中で不運にも橋本が落馬し、意識不明の重体となった。彼を助けるために、何とか正白旗のトラックを借りて、トンコンまで連れて帰るために、道なき平原や山河を越えて、張家口を目指したのだった。

 飲まず食わずが続き、それも何日かかったのか全く記憶にないが、途中、八路軍と交戦状態となり、残念ながら随行の松本一等兵が犠牲になってしまった。既に敗戦し、終戦を迎えているにも関わらず、そこで戦死して帰らぬ人となった松本一等兵。可哀想に思えてならなかった。

 戦闘の状況は書けば長くなるので、後日機会があれば書き綴るつもりでいる。・・・その後、同期の橋本は、手負いの傷も完治して、無事帰国を果たしたのだった。

▼居合をする父(片山流星野派)
昭和30年(1955年)頃
※まだまだ筆者は生まれていない。居合については、定かではないが、以前、「中崎辰九郎先生」という方の名前を聞かされた記憶があるので、近日中に調べることにしている。因みに、この頃には剣道五段教師であったと記憶する。


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文責:西田親生

                       

  • posted by Chikao Nishida at 2022/6/2 12:00 am

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