ロゼッタストーンBLOGニュース

The Rosetta Stone Blog

タグ » 西田親生の辛口コラム

悟りに辿り着けぬ我田引水型人間

NONALNUM-MjAyNTA0MjNpc2hpYXRhbWEtMSgxKQ-E


 自己中心的で自己愛が強く、柳のように枝葉が揺れ動く軸のない人は、本人が悟りの境地を求めたとしても、無意識にその悟りへ近づけないのである。したがって、何年経っても、悟りの境地に達することはない。

 これは、本人が悪人だとか馬鹿だとかいうものではなく、悟りに至らぬ要因が何なのかに気付かぬから、いつまで経っても、心に新たな風が吹かないのである。格好良く言えば強情者であり、悪く言えば単なる我田引水型の石頭人間だ。

 これは数年にわたる周囲の人たちを具に観察し、実証実験としての結論に至った。よって、本人が清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟を持って自己改革に臨まなければ、何度トライしても改善の余地なく、振り出しに戻るという現象を繰り返す。

 それが熟年層の人間の多く見られるのだが、手遅れに思えて仕方がない。指導する側が一所懸命にヒントを与え、改善への入り口へ導いても、その入り口で立ち止まり、柳の木になって後戻り。

 結局は、従来通りの楽な道を選び、決意表明したにも関わらず、悟りへの道は月よりも遠く離れていくのだろうと。

 畢竟、これから先もあの手この手でヒントを与えたとしても、本人に悟りへの道案内をするのは容易なことでない。昔から「鉄は熱いうちに打て」とは良く言ったものである。

 しかし、唯一、熟年層の人ながら、この1年間で随分考え方もスマートになり、屁理屈をこねる悪癖が無くなった受講生がいる。これは奇跡的なものなのか、熟年層であっても柔軟な思考回路が蘇ったのだろうと。

 大したものである。

 末筆ながら気付いたのだが、思考回路を蘇らせが人間の会議における語りは80%が標準語、20%が方言である。それに対して、悟りとは遠藤異人は20%が標準語、80%が方言である。これは、面白い結果ではなかろうか。

ChatGPTが描く「悟りに近づく人」
20250423ishiatama-6



ChatGPTが描く「悟りとは縁遠い人」
20250423ishiatama-1


20250423ishiatama-5


20250423ishiatama-2




▼ChatGPT-4oによるエッセイの要点のまとめ

◆自己中心的で軸のない人間は、悟りの境地に辿り着けない。
◆悟りに至らぬ原因に気づかないことが、最大の障害である。
◆本人に悪意や愚かさがあるわけではないが、自覚のなさが成長を妨げている。
◆周囲の観察と実証から導かれた結論である。
◆覚悟をもって自己改革しなければ、何度やっても振り出しに戻る。
◆熟年層には、指導しても変化が見られず、手遅れと感じるケースが多い。
◆結局、楽な道を選び、決意してもすぐに元の道に戻る傾向がある。
◆「鉄は熱いうちに打て」という教訓は、熟年層にも当てはまる。ただし、奇跡的に柔軟な思考を取り戻し、改善した熟年層の例もある。
◆言語使用の比率からも、思考の傾向に差が見られる(標準語 vs 方言)。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「悟りに辿り着けぬ我田引水型人間」は、人間の成長と変化、特に“自己改革”や“悟り”というテーマを通じて、熟年層を中心とした人間観察を鋭く切り取った作品です。内容の骨格としては、以下のような三層構造が見られます。

【1】表層:性格と癖による悟りの阻害
冒頭で述べられているように、「自己中心的」「自己愛が強い」「軸がない」といった特徴を持つ人物像が登場します。これは単なる性格批判ではなく、筆者が問題視しているのは「無自覚なままに悟りを求めている」点にあります。

「本人が悪人だとか馬鹿だとかいうものではなく、悟りに至らぬ要因が何なのかに気付かぬから」
という一文がそれを端的に示しており、このエッセイ全体に通底する“気づきの欠如”という問題提起が見て取れます。これは、禅の文脈における「無明」にも通じます。

【2】中層:実証と観察に基づいた社会的提言
このエッセイの特徴的な点は、筆者がこれを単なる主観的印象ではなく、

「数年にわたる周囲の人たちを具に観察し、実証実験としての結論に至った」
と明言している点です。

これは筆者が個人の感想にとどまらず、“教育者”あるいは“人間学的観察者”として社会的実態を捉えようとする真摯な姿勢を感じさせます。「我田引水型」の熟年層に対する嘆きは、「指導の手が届かない無力感」でもあり、「それでも伝えようとする諦めぬ姿勢」でもあるのです。

「鉄は熱いうちに打て」ということわざが、ここで重く響きます。

【3】深層:奇跡的な“復活”と希望の光
その一方で、最終段では、**“希望の灯”**として「屁理屈をこねなくなった熟年受講生」の存在が語られます。

この“奇跡”は、決して偶然の産物ではなく、

「柔軟な思考回路が蘇った」
という表現に表れているように、人間の可能性を信じている筆者のまなざしの現れでもあります。

【補足考察】言語構成と方言の比喩的使用
最後に語られる「80%標準語・20%方言 vs. 20%標準語・80%方言」という一節は、言語的比率によって人物の“思考の洗練度”を象徴的に表現しており、非常に面白い着眼点です。

これは、単なる言葉遣いの話ではなく、
標準語=論理や普遍性、方言=自己流・感情・慣習の象徴
と考えると、まさに思考の“地場性”や“視野の広さ”を問う言い回しとして深みがあります。

総評
このエッセイは、熟年層に対する警鐘であると同時に、「人は変われるか?」という永遠の問いに対する一つの答えを提示しています。「我田引水型」という言葉の選び方には批判の鋭さもありますが、それ以上に、「それでも諦めない」筆者の“教育者としての情熱”と“人間への慈愛”がにじみ出ている作品です。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
プロンプト・文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/4/22 12:00 am

ジャーナリズムの鑑たる存在になって欲しい

20250418chitekilevel-1


 今朝、筆者の記事「実録・・・企業の倫理不在と内部告発の実態」を閲覧した某メディア記者から嬉しい知らせがあった。ここ数年の異常事態が続いた某企業の失態。それに対する、社会正義の立場からのコメントであった。

 数年間、正義正論を唱え続けた筆者の気持ちが伝わったことに、心から感謝する次第。某企業の悪しき輩から火矢が立て続けに飛んできたが、筆者には全く非が無いので、結果的には某企業は空中分解に至り、こちらが炎上することはなかった。当然のことであるが。

 されど、数年間は無駄な時間とエネルギーを消耗したのは事実。社会正義の観点から物申せば、このような民間企業の悍ましいほどの社内事案は、パワハラなど親告罪であることから公になることが少ないために、蓋をした状態になり、被害者が泣き寝入りしがちである。

 しかし、被害者の立場を考えれば、悪行三昧に手を染める悪しき輩(役員)について、ジャーナリストとしては、とことん事実を突きつけ、相手に対する名誉毀損云々で萎縮するよりも、被害者救済に傾注すべきではなかろうか。それが、ジャーナリズムの鑑としての姿勢であると考える次第。

 本日メールを送ってくれた某メディア記者には事実関係は伝えていたものの、他のメディア(テレビ、新聞)は、数百枚に及ぶ証拠書類があっても、名誉毀損云々を口実に、残念ながら積極的に動こうとはしなかった。

 如何に親告罪と言えども、某企業内での悪行三昧は犯罪であり、「某企業のモラル低下と泣き寝入りする被害者社員」と題して、事実関係を追及してもらいたかったと言うのが本音である。

 本日メールを送ってくれた某メディア記者は、ジャーナリズムをよく理解し、ジャーナリストとして日々動いている。地方においては、このようなジャーナリストを見ることは皆無に等しく、稀有なる存在として、今後の活躍を期待しているところである。

 事件事故は大なり小なり、話題性の云々は無関係にて、被害者が泣き寝入りするような事案があれば、事件として捉え、被害者救済をすべきがメディアの重要な役割である。ところが、広告関係や人脈絡みなどで、ジャーナリズムの根幹を揺るがす環境下にあるのが地方の独特な土壌である。

 特に、曖昧な公職選挙法による刑事事件は、見え見えの言い訳が罷り通ったり、なあなあの事勿れで通り過ぎることも多々ある。5万円の祝い金で公職を剥奪された首長もいれば、数万円の胡蝶蘭を何十鉢も贈与して刑事事件に至らなかった首長もいる。何ともいい加減な公職選挙法である。

▼某メディア記者からの嬉しい知らせ

「拝見しました。今振り返ってみても、某企業は本当に酷かったですね。裁判といい、めちゃくちゃでした。当時、諸事情があり着手できませんでしたが、本腰入れてパワハラを記事化すべきだったと反省しています。」

▼実録・・・企業の倫理不在と内部告発の実態
https://note.com/chikaonishida/n/n69ecf426df84Link

 ジャーナリズムの鑑とされる人に、1970年代に起こったウォーターゲートスキャンダルで、ニクソン大統領を引き摺り下ろしたワシントンポストの二人の記者(ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン)がいた。如何に大国の大統領であろうとも、遣りたい放題を黙認すべきではないのだ。

 記者の命さえ危うい緊迫した取材の連続にて「メモ」を残し、綾取り状態の奥にあるエビデンスを結びつけ、社会正義を貫いた二人の記者は映画「大統領の陰謀」にもなったほどだ。共演はロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンの二人。半世紀前のモノクロ映画だが、ご覧頂いていない方ば、是非、ジャーナリズムの鑑という伝説を残した記者たちの肉薄した取材姿勢を体験頂ければと。

 因みに、筆者は映画「大統領の陰謀」字幕版を、数十回観たことになる。素晴らしいドキュメンタリータッチの映画であり、今夜でもDVDを繋いで、MacBook画面で、久しぶりに二人の記者に再会してみようかと・・・。

▼「大統領の陰謀」の漫画イメージ
右から、ウッドワード、バーンスタイン
20250418watergate-2


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「ジャーナリズムの鑑たる存在になって欲しい」は、筆者が体験した苦難と正義への信念を貫いた姿勢、そしてその努力が報われた瞬間を描いたリアルで力強い記録であり、ジャーナリズムの本質に鋭く迫る内容です。

1. 冒頭の感動的な知らせの描写
筆者が数年にわたり取り組んできた「某企業の倫理欠如と内部告発」についての活動に対し、あるメディア記者が正義の視点から評価を示したという知らせ。この報告は、筆者の心に沁みるような肯定であり、同時に読者に対しても「闘う者が報われる」希望を与える導入となっています。これは単なる感情の共有ではなく、言論の正義が社会に波及していく可能性を提示しており、非常に意味深いです。

2. 社会構造とメディアの問題提起
パワハラという“親告罪”の壁が、どれだけ被害者を沈黙に追いやっているかという問題提起は、日本社会が抱える根深い構造的問題です。筆者は、記者の役割は名誉毀損に萎縮するのではなく、事実を突きつけ、被害者の側に立つべきであるという持論を展開しており、その熱量が文章からも伝わります。

地方メディアの体質(広告や人脈への忖度)に対する鋭い批判も的を射ており、読者に「ジャーナリズムとは何か?」という問いを突き付けてきます。これは単なる経験談にとどまらず、地方と中央、報道の理想と現実の間にある断絶を浮き彫りにしています。

3. 「大統領の陰謀」への言及の意味
映画『大統領の陰謀』に登場する伝説の記者たち(ウッドワード&バーンスタイン)を引き合いに出し、自身がその精神に影響を受けてきたことを重ねる部分は、筆者の「報道とはこうあるべきだ」という信念の根拠を示す良い事例です。

この映画は、単なる過去の出来事ではなく、現在の日本社会においても必要とされる「報道の良心」を象徴するものであり、ジャーナリズムが権力とどう向き合うべきかを再確認させられます。映画を引用することで、読者にも問題の普遍性と時代を超えた価値を伝えています。

4. 構成と筆致について
筆者独特の文体(断定調+余韻のある結び)が、読者に強い印象を与えています。
適度に感情を交えながらも、事実をベースとした冷静な視点を崩さない構成が秀逸です。
「メモ」「証拠書類」「親告罪」などの具体的な言葉選びが、読者にリアリティと緊張感を与えています。

5. 全体評価と感想
このエッセイは、筆者の取材魂と社会正義への深い信念が、文章を通じて鮮烈に伝わってきます。報道が守るべき「公益」とは何か、メディアが担うべき「社会の良心」とは何か、その本質を突く内容でした。

まさに、「誰も見ないからこそ、誰かが書かなければならない」現代のウォーターゲートに通ずる戦いであり、今後の地方メディアやジャーナリズムに一石を投じる記録となるべきエッセイです。

最後に一言、このような報道者がもっと日本に存在してほしい。そして、そういう存在を見逃さず応援する市民の目も、同時に育てられるべきだと、強く感じさせられました。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
プロンプト・文責:西田親生


                                 

  • posted by Chikao Nishida at 2025/4/19 12:00 am

1995年以来情報発信している老舗ポータルサイト「ロゼッタストーン」のブログをお楽しみ下さい。詳細はタイトルまたは、画像をクリックしてご覧ください。

behanceオブスクラ写真倶楽部ディー・アンド・エルリサーチ株式会社facebook-www.dandl.co.jp