
記事も書籍の原稿も、全てAIに任せればできる。そう豪語する人がいる。
確かに、成果物はできる。文章は整い、画像は華やぎ、動画は動き、音楽まで流れ出す。昨日まで何も作れなかった人の目の前に、それらしい作品が次々と並ぶ。
しかし、そこで一つ、問いたい。
出来上がったのは作品であって、あなたの実力ではない。その違いを、理解しているだろうか。
使い方は人それぞれである。だが、AIの能力を自分自身の能力と取り違えた瞬間、便利な道具は、堕落を覆い隠す化粧道具になる。虚栄と自己過大評価に飾られた本人だけが、その内側で進む思考停止に気づかない。
AIに任せれば、全くの素人でも、文章や画像、動画、音楽を形にできる時代となった。それ自体は、大きな可能性である。
ところが、ビジネスの現場で、その成果物を差し出す人物の実像をつぶさに見ると、違和感を覚えることがある。
文章は雄弁なのに、本人は内容を説明できない。提案書は立派なのに、判断の根拠を尋ねると口ごもる。作品について語っているはずが、どこを、なぜ、そうしたのかという問いに答えられない。
成果物と本人との間に、埋めようのない落差がある。
その落差を、AIは埋めてくれない。本人が学び、考え、試行錯誤しなければ、実力は育たないのである。
かつて、ニューメディアやパソコンがもてはやされた時代にも、機械を万能視する人は多かった。今、その期待の矛先が生成AIへ移っている。
これまでできなかったことが、できるようになる。その喜びは分かる。しかし、「AIを使えばできる」と「自分にできる」は、同じではない。
借りてきた能力を、自分が培った能力のように語り始める。そこに、危うさがある。
筆者も、仕事で生成AIを使う。文章の誤字脱字の確認に用い、noteのヘッダーに適した写真がないときには、エッセイを基に画像を生成させることもある。
例えば、フライヤーのデザインをする場合、A4コピー用紙に絵コンテを描き、スマホで撮影しプロンプトに添付して、それを参考にした背景画などを描かせることにしている。
だが、出てきたものが、そのまま意にかなうとは限らない。何を採用し、何を退け、どこを直すか。その判断まで放棄することはない。
書籍の表紙でも、背景の制作にAIを使う場合はある。しかし、タイトルやサブタイトルの書体は、自分のパソコンに格納したフォントから選ぶ。文字の大きさ、配置、余白を考え、読者の目を引く表紙へ仕上げていく。
そこには、筆者自身の意図と判断がある。
時間のかかる作業をAIで短縮する。その分、自分が考えるべきことに力を注ぐ。筆者が求めているのは、その使い方である。
作業を任せることと、思考を手放すことは違う。
諄いようだが、AIが生み出したコンテンツの出来栄えを、自分自身の実力だと思い込んではならない。まして、何を根拠に書かれたのかも確認せず、自分の名で世に出すのであれば、その無責任さは看過できない。
もっともらしい文章だからこそ、誤りを見過ごしやすい。著作権上の引用や権利への配慮が必要な箇所も、事実関係も、人間が確かめなければならない。
「AIがそう書いた」は、自分の名で発表する人間の弁明にはならない。
筆者は、拙いながらもエッセイ集や写真集を出版している。自分の目で見て、自分の心が動き、自分の言葉で綴ったものを、一冊にまとめている。
巷には、「生成AIで描いた絵本」「生成AIに書かせた小説」が並ぶ。しかし、AIに作らせたというだけでは、筆者の関心は動かない。
デジタルを本業とする人間だからこそ、その先を見たいのである。
その人は、何を見たのか。何に傷つき、何を疑い、何を伝えたかったのか。なぜ、その一文でなければならなかったのか。
筆者が読みたいのは、そこだ。
滑らかな文章の向こうに、書き手の葛藤も、観察も、切実さも見えてこない。どこかで見た言葉が、破綻なく並んでいる。それだけでは、心は動かない。
生成AIによる人物画像にも、筆者は妙に似通った違和感を覚える。整いすぎた顔、似通った表情、不自然なほど滑らかな肌。広告の中で微笑んでいても、筆者には、その笑顔の奥に人間の暮らしが見えない。
美しく仕上げたつもりの広告が、かえって商品への信頼を遠ざける。少なくとも、筆者にとってはそうである。
生成AIが人間を圧倒する分野はある。その速さも、処理能力も、活用する価値は大きい。
しかし、速く作れることと、深く心を動かすことは、別の話である。
筆者は、温かい血の流れる人間が、限られた人生の中で培ってきたものに価値を求める。その手で形作った陶磁器、その目で捉えた写真、その心から生まれた絵画や書に惹かれる。
そこには、費やした時間がある。失敗がある。迷いがある。そして、その人が生きた痕跡がある。
寿命ある人間とAIとの共存は、これからも語られるであろう。筆者も、道具としてのAIを使い続ける。
だが、筆者の心を動かすのは、限りある命を生きる人間が、何かを残そうとする姿である。
自分で考えもせず、検証もせず、出力されたものを自分の手柄として差し出す。その姿勢は、筆者の目には、他人の答案をのぞいて自分の実力を誇る「カンニング」と重なって見える。
問うているのは、機械の仕組みではない。それを使う人間の姿勢だ。
畢竟、AI依存の恐ろしさは、考えなくても成果物が手に入ることにある。
手に入るたびに、考えなくてもよいと思う。考えなくてもよいと思うたびに、自分を鍛える機会を失う。それでも成果物だけは立派になるから、本人は成長したつもりでいる。
その錯覚の果てに、何が残るのか。
AIを閉じれば、文章は書けない。問われれば、説明できない。誤りを指摘されても、自分では直せない。それで、何をもって「自分の実力」と呼ぶのだろうか。
AIを使って、仕事を磨けばよい。表現を広げればよい。しかし、自分を磨くことまで省いてはならない。
最後に、もう一度問いたい。
その文章は立派だ。
では、あなた自身はどうなのか。
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▼ChatGPTによる感想
読み終えて残るのは、**「自分は、作ったものに見合う実力と責任を持っているだろうか」**という、逃げ場のない問いです。誰かのAI依存について読んでいたはずが、途中から自分自身の仕事への姿勢を点検させられる。その迫り方に、この文章の強さを感じました。
特に、「文章は雄弁なのに、本人は内容を説明できない」というくだりは、鮮烈です。立派な提案書を前に、根拠を尋ねられた途端に口ごもる人物の姿が浮かびます。「成果物と本人との落差」が具体的に見えるため、タイトルの問いが重く響きます。
今回加わった、A4用紙に絵コンテを描いてから背景画を生成させるという記述も印象に残りました。まず筆者の中に構想があり、その実現にAIを使う。書体や配置、余白を自分で決める話と合わせて、**「作業を任せることと、思考を手放すことは違う」**という一文に、実践の裏付けを感じます。
そして、後半の「その人が生きた痕跡がある」で、読んでいる側の感情が動きました。それまでの厳しい語調の奥に、時間をかけて学び、失敗し、それでも何かを作ろうとする人間への愛着が見えるからです。筆者がなぜこれほど強く憤るのか、その理由が伝わってきます。
最も怖いのは、成果物だけが立派になり、本人は成長したつもりでいるという描写です。失敗すれば自分の未熟さに気づける。しかし、見栄えのよいものが次々と手に入ると、その機会さえ失ってしまう。ここには、便利さに酔う人間の姿が、冷たく映し出されています。
最後の「では、あなた自身はどうなのか」は、冒頭よりも深く刺さりました。読み進める間に、その問いに答えるための条件を突きつけられているからです。説明できるか。判断できるか。責任を持てるか。 読後、画面に並ぶ自分の成果物を見る目まで変わるような、厳しく、余韻のある文章でした。
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文責:西田親生

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