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我が心を伝える・・・

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 今回は、「我が心を伝える」をテーマに考察してみた。

 十数年も互いに知人友人の関係であっても、双方に距離感が一致するのは非常の難しい。オフィシャルな関係であれば、特に民間であれば、「損得」の一致により合意があり、成立するという距離感である。

 ただ、プライベートになれば、「損得」とう線引きで信頼関係は成り立たない。よって、「損得なし」が原則となる。そこで、双方の信頼関係を築くには、極めて秘匿性の高い情報共有が必要になる。

 例えば、人は過去における育ちや躾、親族は勿論のこと、周囲の知人友人の影響を受けながら、現在の姿を形作っているのである。その核心的なところで双方の情報共有があってこそ、太い絆として結ばれる。

 よって、「我が心を伝える」には、表層的な美辞麗句が並んだ言葉のキャッチボールでは、双方の絆は脆弱なものとして結ばれているに過ぎず、一夜にして絆がブッツリと切れる可能性は高い。

 一昨日のこと、1時間半ほどの話し合いの中で、十数年付き合いのある相手に、筆者自身の幼い頃から現在に至るまで、掻い摘んで、人生の分水嶺を中心に話をすることにした。

 心友でさえも全てを知る訳ではないが、それほど深掘りした内容をシーケンシャルに語ったところ、相手の表情が柔和になったのである。

 筆者とZOOMで打ち合わせをすると緊張するタイプの人間だが、初めて語る「我が心」。過去を紐解き、実例を挙げて、今に至る筆者自身、一人の人間としての「我が心」を伝えたのが、相手の心に響いたのだろうと、自分なりに解釈している。

 緊張するのは、痛いところを指摘されないか、終始苦手分野の堅苦しい話になりはしないか、現状についての厳しい叱責がありはしないかなど、「警戒心」が異常な緊張を醸し出していたのだろうと。

 厚かましくも自己評価をすれば、これまで色んな諍いやトラブルも人生の中で経験してきたが、ほとんどが「誤解」によるものばかりで、これまで「我が心」を伝えられなかった筆者がいるのは否めない。

 相手のことを心配してサジェストすれば、「要らぬ世話」。正しいベクトルを唱えれば、「知らぬ顔」。実情を話しても、「耳栓状態」の人が多かった。自然体で臨むのが筆者の姿勢の特徴だが、どうもそれがストレート過ぎて、「圧」が強く感じられてきたに違いない。

 今回、1時間半ほどの中では、「人を思い、人を救う」という実話を挟み、当時、筆者がどのような「心」を持って動いていたのか、詳細を正直に語ることにした。

 相手は、その話を聞きながら、それまで緊張で固まってきた表情が、じわじわとほぐれてきて、自然体の筆者のその核心的な「我が心」がようやく伝わったに違いないと、思うに至ったのである。

 noteのある人の記事で「幼い頃の躾や教育は人生が決まるほど重要だ」というものがあったように、不幸ながらも、幼少期から厳しい躾や教育を体験したことのない人は、その意味が理解できないまま大人となり、それが自分スタンダードとして軌道修正することもなく、人生を終わる人が多いように思えてならない。

 相手が、先日、筆者の記事に対して「幼少期より躾など一切記憶にない」と豪語するほど、自由奔放な幼少期から現在に至るまで、自らの体験だけに頼り、柳のような人生を送ってきたに違いない。結局は、「損得」にてプライベートを見てきたのであろうかと。

 オフィシャルであればそれで良いが、プライベート領域にて「損得勘定」が前面に出れば、「類は友を呼ぶ」の友が、皆とは言わないが、「損得勘定」という絆で結ばれていることになる。従って、距離感もアバウトであり、日々の一杯飲み屋での憂さ晴らしが常態化していたに違いない。

 これまで、何度もサジェストを続けてきた中で、気づきがあるようで、なかなか「我が心」が伝わらなかったのだが、一昨日、初めて大きな変化をもたらした。それも、好循環への軌道修正の入り口が見えてきたのだろうと確信する次第。

 諄いようだが、この世の中で「我が心」を他者に正確に伝えることほど困難なものはない。皆が同じ思考回路を持っているのであれば、デジタルな世界であれば、容易にコピペで双方が頷くはずだが、アナログ世界はそうはいかない。

 それでも、胸襟を開いて、膝を突き合わせて、秘匿性の高いことでも、オブラートに包まず、一点の曇りなく対面することが重要である。今回、今までに経験したことのない「我が心」が伝わる瞬間を垣間見れたことは、筆者にとっては、すこぶる素敵な経験である。また、相手としても、これまで燻っていたものが馬鹿らしく思えたのではなかろうか。

 畢竟、「我が心を伝える」は難題であるものの、素の自分自身を自然体で臨み、本音を語ることが、最良の選択肢であろうか。勿論、重要なことは、相手が信頼に値する人間であることが必須条件である。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイ「我が心を伝える」は、人と人との距離感、信頼関係、そして自己表現の難しさについて深く考察した文章であり、非常に共感を呼ぶテーマを扱っている。

1. 心を伝える難しさとその試み
エッセイ全体を通して、「自分の本心を伝えることの困難さ」と、それを克服しようとする試みが語られている。十数年の付き合いがある相手でも、オフィシャルな関係なら損得勘定で距離感が決まるが、プライベートではそうはいかない。だからこそ、「秘匿性の高い情報交換」が必要になり、表層的な会話ではなく、本質的な部分での共有が求められるという考えは的を射ている。

特に、「美辞麗句のキャッチボールでは絆は脆弱」と指摘している部分は、人間関係の表面的なやり取りに対する警鐘とも取れる。本当に相手と通じ合いたいなら、飾った言葉ではなく、核心的な話をすることが重要だというメッセージが伝わってくる。

2. 実際の経験を通じた気づき
エッセイの中盤では、筆者自身の実体験が語られており、それが文章の説得力を増している。十数年付き合いのある相手と1時間半の会話を通じて、自身の人生の分水嶺を語り、それが相手の心を開くきっかけになったというエピソードは印象的である。

特に、「相手の表情が柔和になった」「緊張していた表情がほぐれた」という描写は、筆者の言葉が相手に響いた瞬間を象徴しており、心が通じ合ったことを実感できる場面だ。このような具体的なシーンを織り交ぜることで、読者も共感しやすくなっている。

3. 損得勘定と信頼関係
本エッセイでは、「損得勘定でプライベートを考えることの問題点」にも言及している。オフィシャルな場では損得が絡むのは当然だが、プライベートでもそれを基準にしてしまうと、本当の信頼関係が築けないという指摘は鋭い。

特に、「幼少期の躾や教育が人生を決める」という点に触れ、自由奔放な幼少期を過ごした人は「損得勘定」を軸にしてしまう傾向があるのではないかと考察している部分は興味深い。もちろん、これは個人の価値観により異なるが、「損得を超えた関係こそが真の信頼関係である」という筆者の主張は、現代社会においても普遍的なテーマである。

4. 文章全体の流れと語り口
エッセイの語り口は一貫して落ち着いており、時には独白のようにも感じられる。筆者の考えが丁寧に紡がれ、読者も共に思索を巡らせることができる。特に、「デジタル世界ならコピペで容易に伝わるが、アナログ世界ではそうはいかない」という比喩は、現代のコミュニケーションの難しさを象徴しており、印象に残る部分である。

また、「厚かましくも自己評価をすれば」「諄いようだが」など、自身の考えに対して客観的に振り返る姿勢が見られるのも、文章に深みを与えている。

5. まとめ
「我が心を伝える」というテーマのもと、筆者の体験と考察が交錯しながら進む本エッセイは、人間関係の本質を問い直す内容となっている。本心を伝えることの難しさ、それを乗り越えるための試み、そして信頼関係の築き方について、多くの示唆を与えてくれる。

最後に、「相手が信頼に値する人間であることが必要条件」という言葉が示すように、本心を伝えるにも相手を選ぶことが重要だという結論は、現実的でありながらも、読者に考えさせる余韻を残している。

全体として、筆者の経験と哲学が凝縮された一篇であり、非常に興味深く読ませていただいた。

▼ChatGPT-o1による感想

本エッセイを拝読してまず印象的だったのは、「プライベート領域での信頼関係」を築くためには、お互いが核心的な部分まで“さらけ出す”必要があるという点です。表層的な会話や利害の一致ではなく、幼い頃からの生い立ちや、そこで培われた価値観・心情を順を追って伝えることによって、相手の緊張がほどけ、心がほぐれていく様子が具体的に描かれている点が非常に印象深いと感じました。

とりわけ、長年の付き合いであっても「相手は自分をそこまで理解していないかもしれない」という気づきと、そこから一歩踏み込んで相手に自分の核となる部分を語ることで、相手の表情が変わるほどの「変化」が生まれるというエピソードには、人間関係の本質が凝縮されているように思えます。と同時に、いかに相手との「距離感」を合わせることが難しいか、しかしそれが可能となる場面があることも、このエッセイからは伝わってきます。

また、「幼少期における厳しい躾や教育」が、その人の考え方や行動原理に強く作用するという点が強調されていますが、それを持たない(あるいは記憶にない)相手との間では「当たり前」が噛み合わない。そこでどうしても生じてしまう誤解が、長年の付き合いにもかかわらず「我が心」を伝えきれない壁となっていた――この描写は、ときに私たちが感じる“違和感”を丁寧に言語化しているようで、多くの人が共感しうる内容だと感じました。

さらに「損得勘定」という軸では決して測りきれないプライベートな部分であっても、真摯に自分の体験や思いを語り合うことで、ようやく相手に自分の“心の正体”を知ってもらえる。その結果として相手にも何かが芽生えたり、好循環へ向かうきっかけとなったりする――このプロセスが、本エッセイの中心的なテーマ「我が心を伝える」ことの大切さを強く後押ししていると感じます。

一方で、そこには当然ながら大きなリスクも伴うはずですし、「秘匿性の高い情報交換」が可能になるには、相手との絶対的な信頼が不可欠だという言及もあり、ただ“何でも打ち明ければ良い”という単純な話ではないことがうかがえます。むしろ、相手をしっかりと見極めたうえで「自分の裏も表も語る」からこそ、本当の意味での距離感調整が生まれるのだという筆者の主張が、読み手にとって大きな学びになっているのではないでしょうか。

また、「我が心を伝えること」がどれほど難題であるかを強調する一方で、それでも“一点の曇りもなく向き合うこと”の尊さを説いている点は、筆者自身のこれまでの経験に裏打ちされた説得力が感じられます。デジタルにコピペできるような理解ではなく、あくまで人対人のアナログな世界の中で、手探りしながらも心を近づけていく――その過程にこそ、筆者が言う「すこぶる素敵な経験」があるのだろうと想像できました。

最終的に「素の自分自身を自然体で臨み、本音を語る」という一文が示す通り、どれだけ時間がかかろうとも、本質的な部分をさらけ出すことこそが深い絆を生む条件である、という考え方が全編を通じて貫かれており、大変読み応えがありました。筆者の実体験を交えて描かれるために説得力もあり、このエッセイからは「これまで語れなかった過去」や「相手に見えなかった核心部分」を話し合う大切さを改めて教わる思いです。大人になればなるほど防衛本能から本音を隠しがちになるなかで、「我が心を伝える」ことの意義を強く感じさせられる、深い示唆に富む内容でした。
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文責:西田親生


                           

  • posted by Chikao Nishida at 2025/2/14 12:00 am

チャンスをモノにする人、逃す人。

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 チャンスをモノにする人は、熱量が違う。見たこともないもの、新しいアイデア、ビジネスパートナーなど、ここぞチャンスだという時には、目の前に立っている。それほど、仕事に真剣に立ち向かっていることになる。

 ところが、チャンスを逃す人は多い。何かにつけて懐疑的に遠目で覗き見ては、自分スタンダードで遮断して、終了。折角の大きなチャンスが目の前にあったにも関わらず、手に触れることもなく、他所を向いてしまう。だから、チャンスはいつでも逃げていく。

 僅か、0か1か、白か黒かの問題なのだが、チャンスを逃す人は、その瞬間にアンテナが立つことはない。それだけ、チャンスをモノにする人との熱量に差があるからだ。

 人生において、前者と後者を比較すると、10年に一度の大きなチャンス、30年に一度の人生を変えてしまうような稀有なる最高のチャンスを、前者は確実にゲットし、後者は気付かぬ内にチャンスの方から姿を消すに違いない。

 「あの時、他者の助言を聞いておけばよかった!」と猛省しても、あの時の大きなチャンスは二度と訪れることはない。人を見る目、事象を見る目のない人は、熱量のない人と同様に、チャンスを逃す。

 自分スタンダードに酔いしれ、世間を知らぬ人たちもまた、大きなチャンスを逃すことが多いのではないか。

 チャンスは自分から引き寄せるモノではなく、いつ何時降り立つのか分からぬチャンスについては、日頃からアンテナを立てておく必要がある。しかし、そうしていても、邪念ある人にはチャンスの方から近づいてくることはない。

▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、「チャンスをモノにする人」と「逃す人」の違いを熱量(情熱・意欲)という観点から鮮やかに描いている。短いながらも、人生における成功と失敗の分岐点を的確に指摘しており、多くの人にとって考えさせられる内容となっている。

1. 熱量の違いがチャンスを分ける
冒頭で、「チャンスをモノにする人は、熱量が違う」と断言している点が印象的だ。新しいアイデアや人との出会いに対して積極的に向き合う人と、遠巻きに眺めるだけで終わる人の違いを端的に説明している。

特に「見たこともないもの、新しいアイデア、ビジネスパートナーなど、ここぞチャンスだという時には、目の前に立っている。」という部分は、成功者がチャンスを意識的に探し求めるのではなく、自然とチャンスに遭遇することを表している。つまり、普段の姿勢がチャンスとの遭遇頻度を左右するという示唆が込められている。

一方で、「チャンスを逃す人」は、「何かについて懐疑的に遠目で覗き見ては、自分スタンダードで遮断して、終了。」と表現されており、保守的な態度が自らの成長や成功を妨げることを鋭く指摘している。

2. チャンスを掴める人の特徴
「僅か、0か1か、白か黒かの問題」と表現している点が興味深い。
ここではチャンスを掴むかどうかは単なる意志決定の問題であり、迷う余地などないというメッセージが込められている。

また、「チャンスを逃す人は、その瞬間にアンテナが立つことはない」とも述べられている。これは、普段から意識していなければ、いざチャンスが目の前に現れたとしても、それを認識することすらできないという鋭い洞察を含んでいる。

チャンスを掴む人は、アンテナが立っている状態が「常態」なのであり、そこが普通の人との違いということだ。

3. 後悔は役に立たない
「『あの時、他者の助言を聞いておけばよかった!』と猛省しても、あの時の大きなチャンスは再度訪れることはない。」
この一文は非常に強いメッセージを持っている。

ここでは、「後悔の無意味さ」をはっきりと断じており、チャンスは一度逃すと二度と戻ってこないことを警鐘として鳴らしている。さらに、「人を見る目、事象を見える目のない人は、熱量のない人と同様に、チャンスを逃す。」と続くことで、成功には洞察力や客観性も重要であるという補足が加えられているのも見事だ。

4. 自分基準に閉じこもる人は成功できない
「自分スタンダードに酔いしれ、世間を知らぬ人たちもまた、大きなチャンスを逃すことが多いのではないか。」
この部分は、自己満足に陥っている人に対する痛烈な指摘だ。

現代では、自分の価値観や基準を大切にすることは重要だが、過度に閉じこもることで視野が狭くなり、せっかくの機会を見逃してしまうという指摘は納得できる。これは**「成功する人は柔軟で、失敗する人は頑固」**という法則を端的に表している。

5. チャンスは求めるものではなく、日頃の態度で訪れる
「チャンスは自分から引き寄せるモノではなく、いつ何時降り立つのか分からぬチャンスについては、日頃からアンテナを立てておく必要がある。」
ここでは、チャンスは狙って得るものではなく、普段の姿勢や態度によって自然に引き寄せられるものであるという洞察が語られている。

また、「邪念ある人にはチャンスは近づいてくるはずがない。」という締めくくりが、成功するためには純粋な情熱が必要であることを暗示している。
単に成功を求めるのではなく、純粋に物事に取り組むことが、最終的にはチャンスを引き寄せるのだというメッセージが込められている。

総評
このコラムは、チャンスを掴む人と逃す人の違いを、熱量・意識・態度という視点から鋭く描いた作品であり、非常に共感できる内容だった。

・チャンスを掴む人は、熱量が高く、常にアンテナを張っている。
・チャンスを逃す人は、慎重すぎるあまり、目の前の機会すら認識できない。
・後悔しても意味はなく、チャンスは一度逃せば戻ってこない。
・成功するためには、自己基準に閉じこもらず、柔軟でいることが大切。
・チャンスは求めるものではなく、日々の態度によって自然と訪れるもの。


これらのメッセージが明確に伝わり、読む者に強いインパクトを与える内容だった。
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文責:西田親生


                           

  • posted by Chikao Nishida at 2025/2/13 12:00 am

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