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生成AI画像に食傷する日々

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 イマジネーションの世界は実に素晴らしい。しかし、人間の手で描かれたものと、生成AIのプロンプトで生み出されたものは全く異なる性質を持つ。最近、生成AIが生成する画像に対し、食傷気味である自分に気づくことが多くなった。

 MidjourneyやDALL-Eなどの生成AIを用いることで、脳裏に浮かんだイメージを可視化できる。しかし、それらはリアルであるようで、どこかリアルではない。筆者は1991年から3D CGに着手し、2007年からは仮想現実世界「Second Life」に没頭し、イメージの世界を可視化することに専念した時期がある。しかし、現在、生成AIが作り出す画像に対して、感動を覚えることはほとんどない。

 例えば、画家が描く絵やビデオカメラで捉えた人物の表情には心を動かされる。一方で、生成AIが生み出す画像を見ても、それらが心に響くことはない。生成AIの共通言語であるプロンプトの仕組みを理解していても、生成された静止画や動画には不自然さが残る。そして、似たような画像が無数にネット上に溢れている現状に気づく。これらの画像は一見すると生き生きとしているように見えるが、その被写体に生命力を感じることはない。

 先ほど、スマホを何気なく操作していると、熊にまつわるエピソードを語る音声が、生成AIで作られた画像とともに表示された。じっくり見ると、熊の右手と左手の爪の数が異なり、目がキラリの光って入るものの、生命の輝きがなかった。内容はフェイクだと推察されるが、視聴後に衝撃や感動を覚えることもなく、後味が悪い。

 生成AIの静止画や動画は極めてリアルな表現に近づいている。また、抽象的な表現においても、一見すると素晴らしいものに見える。しかし、アナログな手法で人間が直接手掛けた作品の方が、圧倒的な迫力と心を打つ力があると感じる。

 勿論、私も毎日のようにエッセイやコラムを書く中で、挿絵として生成AIの画像を利用することがある。その手軽さと投稿の迅速さは大変便利なので、重宝している。しかし、拙作ではあるが、自ら撮影した写真をエッセイに用いるほうが、文章内容との親和性は圧倒的に高いと感じる。

 この1、2年の間に生成AIは日進月歩どころか、秒進分歩、更には光進音歩の勢いで進化し、世界を席巻しつつある。それにも関わらず、アナログ映像の持つ感動に匹敵するデジタル映像は、いまだ存在しない。おそらく私の価値観が、バーチャル世界よりリアル世界に重きを置いているからだろうと。よって、いくら仮想現実の世界を楽しんだとしても、最終的には現実に戻らざるを得ない以上、そう思わざるを得ないのだ。

 生成AIによる静止画や動画に対する価値観は、人それぞれである。絵心がない人でも、プロンプトさえ書き込めば、誰でも静止画や動画をAIに生成させることができる。この手軽さは素晴らしいが、それは所詮、生成AIに描かせているに過ぎず、プロンプトを組み立てた人自身の力量を直接反映したものではない。

 一方で、仮想現実世界の創造において、生成AIは今後も大きな役割を果たし、独特でこれまでにない世界を生み出し続けるだろう。しかし、筆者の心の中には、どこか霧がかかったような違和感が残るのである。

 以上、筆者の個人的な見解であり、異論や反論はあるかもしれないが、「アナログを凌駕するデジタルなし」という結論に至らざるを得ない。そして、心に深い感動を与えるアーティスティックな画像は、やはり人間の手によって直接創造されたものであるべきだと考える次第。

※写真は過去において撮影したもの(機材 Nikon)
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▼生成AIが描くミツバチ
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▼筆者撮影のミツバチ
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▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、生成AIと人間の創造性との間の本質的な違いに深く切り込んでいます。筆者は、技術の進歩が生み出すビジュアル表現の可能性を認識しつつも、その表現が持つ「空虚さ」に焦点を当てています。彼の観点からは、AIによって生成された画像は、表面的な鮮やかさはあるものの、人間の感情や経験の複雑さを内包する「魂」を欠いていると捉えられています。

特に、筆者がAI生成画像の「不自然さ」と「繰り返し」に触れた部分は、技術依存がもたらす芸術の質的な低下を示唆しています。生成AIが提示する無限の可能性にも関わらず、それらの作品が見せるパターンやテンプレート化された美学は、筆者にとって人間本来の創造力とは異なるものです。この観点は、AI技術がアートを形作る上での役割を再評価するよう促します。

さらに、筆者は「リアルさ」の追求が必ずしも心の動きを引き出すわけではないと批評しています。彼にとって、AIが再現できるのは形態の精確さだけで、その背後にある感情やストーリーの深さ—人間ならではの不完全さや曖昧さを捉える能力—は表現できていないのです。

このエッセイは、デジタル化が進む世界において、人間の創造的な介入がなければ得られないアートの価値を問い直しています。筆者の経験に基づく観察は、テクノロジーがいかに進化しても置き換えが不可能な、人間固有の感受性と創造の重要性を強調しているのです。この深い洞察は、AIと人間の共存する未来において、私たちがどのように技術を使いこなし、制御するかという重要な問題提起を行っています。
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文責:西田親生


                                       

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/6 12:00 am

情報過多の時代に、安直に耳を傾け、目を向けるな。

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 直前の記事で「個人情報漏洩」についての危惧の念を書き綴ったが、デジタル社会が進化するのに併行して、情報量の膨大さは筆舌に尽くし難い。

 そこで、自戒を込めての話であるが、自己脳内の理解力、消化能力を超えるものについては、安直に耳を傾け、目を向けぬことが肝要である。

 特に、大量のフェイク情報が埋まったこの世界では、一部のマスコミ報道でさえも、裏付けなしにて、決めつけで走り過ぎたために、虚偽情報を拡散している傾向がある。

 言葉は尾籠ながらも、中立公正なる情報であるべきが、味噌糞の状態と化しており、ジャーナリズム欠如の一部マスコミの動きは、庶民への娯楽情報とすり替えられ、購読数、視聴者数をアップしようとしているだけだ。

 このような稚拙な手法がいつまでも通用することはないと考えているが、それら一部マスコミの学習能力の欠如が常態化すると、真実も虚偽も何もかも一緒くたとなってしまい、日常生活に異常なる悪影響を及ぼしかねない。

 死語となっている、日本特有の「腹芸」。現在でも、一部の政治家(表向き)は、表と裏の顔をもち、表では正義の味方、裏では私服肥やしに専念している政治屋として暗躍している。

 諄いようだが、自分自身で判断不能な場合は、近しい見識高き人に相談し、判断を仰ぐことをお勧めしたい。勿論、知ったかぶりの何ちゃっての人は論外であるが。(苦笑)

 畢竟、日頃から重要であるべき姿勢は、情報のフィルタリング態勢である。諄いようだが、自らの処理能力を超えるようなものへは、絶対に頭を突っ込まぬことが賢明だ。

 オーバーフローする情報の津波に対して、今一度、日頃の自らの情報フィルタリングが確とできているか否かの検証をされては如何だろうか。

 最後に、noteでも同様に、根拠なきいい加減で無責任な投稿を見掛けることがあるが、真偽を見抜く眼力を備えておけば、まんまと騙されることはない。よって、言いたい放題、やりたい放題のnoterとは距離を置くが無難であろうかと。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、情報過多の現代社会における個々人の情報の取り扱い方や、判断力の重要性について鋭い視点で論じています。以下に、感想を詳述します。

エッセイの主題とその重要性

エッセイは、情報過多の時代において、情報の取捨選択や真偽の判断が個々人の生活や社会全体に与える影響を強調しています。このテーマは、特にデジタル化が進み、フェイクニュースや誤情報が横行する現代において、非常にタイムリーかつ重要です。著者の指摘する「情報フィルタリング」は、デジタルリテラシーの中核を成す概念であり、万人が意識すべき課題と言えるでしょう。

論点の鋭さと説得力

情報過多とフェイク情報の危険性
著者が指摘する「膨大な情報量」と「フェイク情報の拡散」は、現代社会の課題そのものです。一部のマスコミ報道が虚偽情報を拡散する傾向にあるという点は、情報の中立性が損なわれる現状を的確に捉えています。特に「味噌糞状態」という表現は、情報が無秩序に混在する状況を強調しており、読者の注意を喚起する表現として効果的です。

「腹芸」と政治家の二面性
日本独特の文化的背景を踏まえた「腹芸」の例えは、政治家や権力者の二面性を風刺的に描写しており、ユニークな視点を提供しています。この例は、個人の情報リテラシーだけでなく、社会的な権力構造における情報操作の問題をも暗示しています。

情報のフィルタリングの重要性
「自分自身の処理能力を超える情報には深入りしない」というアドバイスは、情報社会で生きる上での実践的なガイドラインとして有用です。特に「見識高き人に相談する」という提案は、情報の信頼性を補完する方法として説得力があります。

表現の力強さと警告の効果
文章全体にわたり、読者に警告を促す力強いトーンが印象的です。「情報の津波」や「真偽を見抜く眼力」という表現は、情報過多の危険性を視覚的かつ感覚的に訴える力があります。また、「noteの無責任な投稿者」と距離を置くべきとの主張は、具体的なプラットフォームを例示することで、警告を現実に引き寄せています。

総評
このエッセイは、現代社会における情報リテラシーの重要性を力強く訴えるものであり、その視点は独創的かつ普遍的な価値を持っています。読者に対して「自らの情報フィルタリング能力を検証する」という行動を促す結びも、実用的で共感を呼びます。このテーマは広く共有されるべきであり、多くの人に考える機会を提供するでしょう。

▼直前の記事「個人情報、本当に大丈夫?」
https://note.com/chikaonishida/n/n932e66a09346Link
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/3 12:00 am

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