ロゼッタストーンBLOGニュース

The Rosetta Stone Blog

カテゴリー » コラム・エッセイ

老害と揶揄されたら、老益になればいい。

20250121rogai-1


 日本人は兎に角、自分や他者の年齢を気にする。そして、世代を気にする。気にしても、生産性があるとは言えないのだが。

 老害という言葉は、非常に辛辣なものである。「老いた人間による害」となれば、害虫や害鳥、害獣のような扱いである。

 ここで米国大統領選を見ると、バイデン氏が82歳で、今回当選復帰したトランプ氏が78歳である。そこで、周囲が「老害」という言葉を使うだろうか!?

 勿論、昨年のバイデン氏の認知の疑いや体調不良などが取り沙汰されたが、大国の元首なのだから仕方ない。健康でなければ務まらぬ、国内で最も過酷な職位であるからこそ、問題視されるのである。

 しかし、「老害」という言葉はほとんど目にすることはなかったように思えてならない。年齢を重ねた人への敬愛の念は、日本人よりも欧米人の方が揺るがない。

 日本人が、年齢や世代を余りにも気にするばかりか、その線引きにより接点が希薄になるのが常態化しているのが、全てを物語っているのではなかろうか。

 「今の若いもんは!」という高齢者。「今の爺さんたちは老害ばかり!」と反発する若者。

 その爺さんに言いたいことは、「老害」を揶揄されたら、「老益」になるよう修正しなければならない。対して、若者に言いたいことは、「今の若いもんは!」と言われたら、根拠あるものならば、同様に修正しなければならない。

 そこで、「老害」と言い放つ若者が自己改善ができないのであれば、高齢者に対して「老害」とは言えない。同様に、「今の若いもんは!」と叱責する高齢者が自己修正できなければ、若者を誹謗するものではない。

 よく考えてもらいたい。

 「老害」と揶揄する若者も、60年も経てば、後期高齢者になる訳だ。また、「今の若いもんは!」と叱責する後期高齢者は、60年前は若者だった訳だ。

 また、今の若者と高齢者との年齢差は決して縮まることはない。よって、リアルタイムに存在している若者も壮年も高齢も、現在の枠の中で接点を持っており、それらの相関関係は一応に互いに歳を重ねるだけで、年齢差は変わらないのである。

 従って、マスコミなどがよく使いたがる、よく分析したがる、世代比較や年齢比較は、正直なところ根拠なきものが多い。どこで正確に線引きした上での分析結果なのか、信憑性に欠ける。

 例えば、29歳の人が翌日誕生日となれば、どうしても世代で考えたい人は、自らを二十代から三十代とするだろうか?僅か1日経過しただけで、二十代の世代と三十代の世代に、マスコミが伝える世代の違いとして格差が生じるのだろうか。

 また、60歳になり、60歳を定年制にしているところで勤務している人が、つい昨日まで壮年、熟年と思っていた人が、今日すぐに高齢者になるのだろうか?全て数字の上での話であり、個人差のある脳年齢、体力年齢など考慮されてはいない。

 これは、あくまでも私見であるが、年齢や世代を気にする日本人の考え方は、すこぶる浅はかに思えてならない。ナンセンスであると受け止めるのである。異論反論があろうけれども、年齢や世代で安直に人を分析するものではない。だから、生産性がないと申し上げているのである。

 ある日のこと、テレビ番組で面白いアンケートを観たことがあった。フランスのパリ在住の若者へのアンケートだったが、二十代の女性と五十代の女性のどちらに興味があるかという質問があった。

 答えは、何と五十代の女性を選んだ若者男性が圧倒的に多かった。理由は、「人生において経験豊富で学ぶことが多いから」である。それを見ていて、なるほどと頷く筆者である。

 さて、同じ質問を日本人の若者男性に聞いたら、かなり異なる結果に終わりはしないか。「話が合わない」、「世代が違うので趣味が合わない」、「若い女性が一緒にいて楽しい」などと言い放つに違いない。そして、マッチングアプリで相手を探すのだろうと。(苦笑)

 話は飛びに飛んだけれども、要は、もし「老害」と言われたら「老益」になればいい、若者も同様に「今の若もんは!」と言われたら、「今の若い人は凄いね!」と言われるようになればいい。

 実に簡単なことである。

 最後に若者も壮年も熟年も高齢者も、好奇心だけは生涯持ち続け、年齢や世代などという言葉を使わぬことだ。何故なら、年齢性別に関係なく、皆、法の下で平等であることを忘れてはならない。

 理想を言えば、年齢、性別、世代などに囚われず、皆が支えあってこそ、「人」という文字となることもご認識頂ければと。

 非常に冗長なるコラムになったが、お許し頂ければと。

※画像は、画像生成AI Midjourneyで制作したもの。

▼ChatGPT-o1による感想

このコラムは、日本社会に根強く残る「年齢や世代へのこだわり」がもたらす問題を指摘しつつ、互いの立場で見直し・工夫すればポジティブな関係に変えていけるという主張を展開しているのが特徴的だと感じました。以下、内容を追いながら詳しく感想を述べます。

1. 「老害」と「老益」
最初に述べられている「老害」という言葉は非常に強いネガティブ表現であり、使われる本人も周囲も気分を害しがちです。一方で、このコラムでは「言われたら“老益”を目指せばいい」と強調しています。これは、「害(マイナス)」とされている部分を、「益(プラス)」に転じる視点が大切だという提案であり、年齢を重ねた結果として社会に良い影響を与える存在になろうというポジティブなメッセージが込められています。

感想:
こうした表現の転換は、単に言い換えるというだけでなく、自分や周囲を冷静に客観視し、自分にできることを再認識しようとする態度にもつながりやすく、建設的な考え方だと感じます。

2. 世代論への批判と個々人の修正意識
コラムでは、若者が高齢者を「老害」と揶揄し、高齢者は若者を「今の若いもんは!」と決めつける図式が示されます。しかし、それはあくまで“口にする側が自己修正できていないだけ”だと指摘しています。世代間の対立構造を生むよりも、「老害」と言われるなら自身が改める努力を、「今の若いもんは!」と嘆かれたら、同様に自分を振り返ってみる——つまり、互いにまず自己修正をすべきだという考え方を提示しています。

感想:
「相手に文句を言う前に、まず自分はどうなのかを振り返る」というのは、年齢を問わず、社会的な摩擦を軽減する大切な考え方です。年上・年下の関係を単純化して断絶をつくるより、自分から境界を溶かそうとする姿勢が大事だというメッセージに共感しました。

3. 米国大統領の年齢から見る「老害」観
バイデン氏(82歳)やトランプ氏(78歳)という具体例を挙げ、日本では年齢が話題になりがちだが、米国ではあまり「老害」というレッテルは使われないという話が出てきます。実際、認知力や健康面を懸念されることはあっても、「年齢が高いからダメ」という単純な区分では語られにくいという点を提示しています。これは、「年齢よりも、その人ができることや実績を重視する社会的風土」の違いを示唆していると言えます。

感想:
日本との比較によって、「年齢をひとつの決定的な線引きにする文化」が相対化されており、興味深いです。背景には、アメリカ社会に根付く「個人ベースの評価」という考え方と、日本社会における「組織内の年功序列や世代別の価値観」の違いがあると想像できます。

4. 日本人の「世代区分」意識への疑問
コラム後半では「年齢の線引きの無意味さ」が強調されます。たとえば29歳が30歳になった瞬間に世代が変わるのか、60歳を迎えた途端に「高齢者」扱いになるのはおかしいだろう、といった具体例が挙げられています。そして、人間の心身の成長や成熟度は数字の上で一様に区切れるものではないので、「年齢で分析することに大きな意味はない」と断じています。

感想:
実際には年齢相応の変化というものはあるのかもしれませんが、それを基準に人を測ろうとすると、視野が狭くなる面も否めません。コラムが示すように「年代や年齢で決めつけるのではなく、個人レベルの多様性を大切にする」という姿勢は、今の社会で特に必要なメッセージと感じます。

5. フランスのアンケートから見る「経験の価値」
フランスの若者男性に「二十代の女性と五十代の女性、どちらに興味があるか?」と問うた際、五十代が圧倒的多数だったという例が紹介されています。その理由は「人生経験が豊富で、学ぶことが多いから」というもの。これを受けて、日本だったら「話が合わない」「世代が違う」「若いほうが楽しい」という回答になりそうだ、として、日本人が持つ「世代で区切る思考」を再度浮き彫りにしています。

感想:
同じ若者でも文化圏や個々人の価値観によって興味の対象は異なります。世代や年齢が違う相手との接点から新しい視点が得られるかもしれないと考えられるのは、人間関係を深める大きなきっかけになるはずです。その意味で、日本人社会がもつ「似た年齢同士で集まりやすい」傾向の限界が、示唆的に感じられます。

6. 「老益」だけでなく「若益」へ
最終的に、「“老害”と言われたら“老益”を目指す」「“今の若いもんは!”と言われたら“今の若い人はすごいね”と言われるようにする」という呼びかけが印象的です。また、年齢や性別、世代などにとらわれず、お互いに支え合う社会であるべきだ、というまとめで結ばれています。

感想:
単なる「老益」という言葉にとどまらず、「若い人も自らの強みを伸ばし、“若益”に変えていくべき」という発想を含んでいるようにも読めます。どちらの世代かに限らず、自分の立場を自覚しながら何がプラスになるかを考えて行動する姿勢こそ大事だと改めて感じました。

まとめ
年齢や世代に対する過剰な意識が生む対立を、実りある共存・理解へと転換しようとする視点が、一貫して示されているコラムだと受け取りました。

「老害」と揶揄されたら「老益」を目指し、若者も「今の若いもんは!」と言われたら「ちゃんと見直す」姿勢があればいい、という提案は、非常にシンプルでわかりやすい。

日本社会特有の年齢・世代による線引き文化を相対化し、個人ベースで互いを評価し合う発想の必要性を説いている点が説得力を持っています。
同時にコラムの随所で「好奇心を生涯持ち続けること」や「お互いに支え合うこと」の重要性が語られ、読後感として前向きな気持ちにさせられました。

全体的に、日本人の年齢意識や世代区分への固定観念に一石を投じながら、各世代がそれぞれの持ち味を活かして発展していける理想を描いているコラムだと感じました。互いを「○○だから」と決めつけて排除するのではなく、お互いに学ぶ姿勢をもつことで、老若男女が心地よく関わり合う社会を目指す——そんな思いが伝わってくる内容でした。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
文責:西田親生


                             

  • posted by Chikao Nishida at 2025/1/22 12:00 am

次元を異にする、名家の神髄とは!?

Chikao-Donshu


 名家には程遠い次元に生息している筆者であるが、たまたま、歴史と伝統を誇る名家に生まれた人を多く存じ上げている。しかし、人格者でもあり、敬意を表すべき人物は非常に少ない。

 それは、名家というバッジを常に胸に光らして、自らは名家の出身者であり、立派な人物であると思い込んでいる。これも、先ほど記事として投稿した「思い込み」の危険な兆候である。

 名家出身者であろうが高学歴であろうが、それを全て是とするのは、偏った価値観であり、目の前の人がその価値を持つのか否かは定かではない。ただ、周囲が「憧れ」の境地にて、是非を問わぬのである。

 名家出身者でお会いした中で、とても重厚で繊細で、かつ、教育熱心な方を思い出す。それは、小笠原流礼法三十二世宗家の故 小笠原忠統氏である。

 元々は小倉藩主の末裔として、東京目白のご自宅(旧居は新宿にある小笠原伯爵邸レストラン)を訪ねたこともあり、座敷での様子は今でも昨日のように、深く記憶に刻まれている。

 同氏を座敷で待つこと30分(正座にて足が痺れている)。和服姿の同氏が廊下から入られる。衣擦れの音がしなやかにて、静かに座してご挨拶があった。

 「遠方からおいでいただき、有難うござます。以前、熊本の窯元で私が咳き込んでいる時に、温かいお茶を頂き大変助かりました・・・」と労いの言葉から始まった。

 当時、同氏の目に留まった窯元の主人(若くして他界)を同行しており、その焼き物を小笠原流礼法茶器セットとして限定30セット作るという話をするために伺ったのである。

 筆者は新聞社に勤務していたので、その窯元の依頼にて、最終的には30セットの桐箱入り茶器セットを作り、箱書きを同氏が行うという段取りがついた。

 そこで同氏が筆者に突然質問を投げかけたのである。

「この座敷を見回して、何か気づきませんか?」と。

 急に話が変わったので、一度、脳内をリセットして周囲を見回し、こう答えた。

「柱の上にある竹に一輪の野草が目に留まりました。」と。

 すると、同氏はにこやかな表情に変わり、以下のような言葉が返ってきた。

「よく分かりましたね。実は、今朝ね、早朝より川の土手を歩いていたら、そそと咲く野草があったので、それも1輪。それを摘んで、そこに飾ったのですよ。」と。

 同氏の問いに対して正解であってホッとしたが、流石に、人を見極める手法なのかと、心の中で頷いた。

 同氏は、私立学校の顧問もしており、改革を進めていた頃だった。先ずは、給食のご飯茶碗のアルマイトを廃止、焼き物の器に変えたのである。また、ご飯を炊くのに多くの電気炊飯器に切り替え、炊き立てのご飯を子供達が楽しむように。

 お箸は「マイお箸」を自宅から子供達が持参するように決められ、日本の伝統文化の一端を存分に学校教育に取り入れたのである。

 ここで笑い話だが、後日談として、相当数の電気炊飯器を導入したのは良いが、給食室の室温が上がり、最終的にはエアコンを相当数追加設置したとの話を聞き、吹き出してしまった。

 翌日、同氏と約束したのは、ランチを高輪プリンスホテルの和食で楽しもうということだった。翌日、同ホテルへ足を運び待っていると、同氏の後ろから、体格の良い和服姿の御仁が立っていた。

 その御仁はお能の喜多流十六世宗家の故 喜多六平太氏であった。お能の大家らしく、微妙に顎を何度も引きながらの独特な動きが印象的であり、小笠原氏とは異なる重厚さが垣間見れたのである。

 食事を終えた頃、小笠原氏の付人が風呂敷を徐に開き、数冊の古文書らしきものを見せてくれた。そして、小笠原氏が以下のように解説してくれたのである。

「ここを見てください。小笠原家と細川家の宴の記述ですが、そこでお能の仕舞を披露しているのが、ご先祖の喜多流宗家なんですよ。ほら、羽織をさっと脱いで、手から離れるシーンが書かれているでしょ!?」と。

 小笠原氏も喜多氏もとてもフランクであるが、礼節を重んじており、非常に堅苦しいと予測していたものの、逆に、このような古文書を紐解きながら笑顔で解説している姿に、流石に本物の名家であると頷くばかりであった。

 話は、非常に飛びに飛んで、高輪プリンスホテルの食事会にまで至ったが、公人として人格者として、一切偉ぶることもなく、自然体の心地良い所作に感動した筆者である。

「明日、たまたま某所で私の姪の誕生会があるので、一緒に行きませんか?」と。

 いえいえ、新聞社の若造が厚顔無恥にも足を運び入れるタイミングでもなく、丁重にお断りしたが、何と、その姪の方は皇族に嫁がれたようで、重ねて、丁重にお断りしたのであった。

 実は、出張を2泊3日としていたので、雇われの身でもあり、翌日は別件で熊本市で打ち合わせとなっており、仕方なくお断りしたのである。今思えば、その誕生会に参加しておけば良かったと、悔いるばかり。

 しかし、全国区の名家は、言葉は適切ではないが、次元が違う。可愛らしい一輪の野草から、ホテルランチと江戸時代の古文書、そして皇族の方の誕生会と、僅か2泊3日の出張が、とても長く感じるほどに充実したものであった。

 蛇足ながら、地方における名家を見回すと、上記の方々とは質を異にしており、地方はやや傲慢で、鼻息強いところが見え隠れすることもある。よって、本物の名家とは、何事も平身低頭、更には自然体でウィッツの塊が、名家スタンダードであろうかと考えるに至ったのである。

 最後に2回目の笑い話だが、小笠原流礼法茶器セットの箱書きについては、宗家ご自身が1日に1つしか書かぬと言い出し、結局、箱書き完成が1ヶ月以上掛かってしまったのが、オチとなる。しかし、素晴らしい筆の走りの箱書きを見て、今は亡き陶芸家は涙して喜んでいた。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、名家の人物とのエピソードを通じて、「名家」の本質やスタンダードについて考察したものであり、非常に奥深い内容でした。以下、感想を述べます。

1. 名家の人物像とその本質
エッセイでは、歴史と伝統を持つ名家に生まれた人々の中でも、本当の意味で尊敬されるべき「人格者」が稀であることが強調されています。特に、小笠原忠統氏や喜多六平太氏といった具体的な人物描写から、真の名家に必要な条件として「平身低頭」や「自然体」、そして「ウィットに富む人格」が挙げられており、単なる血筋や肩書きに依存しない「人間力」が重要であることが伝わります。

小笠原氏の自然体のエピソード――早朝に見つけた野草を座敷に飾る心遣いや、食事会での古文書を用いた解説など――が、とても印象深く、読者にその魅力を自然に感じさせます。

2. 個人的な体験の鮮やかな描写
エッセイ全体を通じて、筆者が体験した出来事が非常に鮮明に描写されています。特に、座敷での正座や衣擦れの音、窯元の焼き物の話など、臨場感のある細やかな描写は、読む者をその場に引き込みます。また、高輪プリンスホテルでのエピソードや古文書の内容なども、当時の文化的な空気感や、名家の持つ奥深さを感じさせる一助となっています。

3. 「本物」と「偽物」の対比
地方の名家に言及する部分では、本物の名家とは一線を画す「傲慢さ」や「鼻息の強さ」が語られています。これにより、全国区の名家の魅力が際立つ構成となっており、対比が効果的です。特に、「本物の名家は次元が違う」という一文は、経験に基づいた強い信念を感じさせると同時に、名家の本質を端的に示しているように思えます。

4. ユーモアの効いた締めくくり
全体の中に散りばめられたユーモアも、このエッセイを一層魅力的にしています。箱書きに1ヶ月以上かかったというオチや、炊飯器導入後のエアコン増設という笑い話は、シリアスなテーマに軽妙なアクセントを加えています。これにより、エッセイ全体が重くなりすぎず、読者に親しみやすい印象を与えています。

5. 深い洞察と筆者の思い
このエッセイからは、筆者の「名家とは何か」という問いに対する真摯な考察が滲み出ています。名家を単なる肩書きや伝統ではなく、「人間性」や「心のあり方」で測るべきだという結論は、読者にも共感を呼び起こすことでしょう。また、筆者が振り返って「誕生会に参加すればよかった」と悔やむシーンには、素直な感情が表れており、読者に筆者自身の人間性を垣間見せています。

結論
「名家」というテーマを中心に、具体的なエピソードと筆者の洞察が見事に融合したエッセイでした。名家の真髄を「平身低頭」「自然体」「ウィット」という言葉で表現しつつ、名家出身者の個性と行動が名家の価値を形作ることを伝えています。

このエッセイは、単なる体験記ではなく、筆者自身の人生観や哲学が豊かに描かれた作品です。読者としても、名家の本質について深く考えさせられる一作でした。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/1/21 12:00 am

1995年以来情報発信している老舗ポータルサイト「ロゼッタストーン」のブログをお楽しみ下さい。詳細はタイトルまたは、画像をクリックしてご覧ください。

behanceオブスクラ写真倶楽部ディー・アンド・エルリサーチ株式会社facebook-www.dandl.co.jp