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ウィルス&ワームチェッカーやその他セキュリティアプリの信頼性は!?

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 長年、パソコンにおける「お守り」のような存在として、ウィルスやワームを検知するアプリやその他のセキュリティアプリをインストールすることが当然と考えられてきた。しかし、ある時から、これらのアプリが本当に信頼に値するのかという疑念が湧いてきた。

 これらのセキュリティアプリが、サイバー攻撃に対する「最強の盾」として機能するのであれば、世界中で暗躍するハッカーの攻撃に対しても安心できるはずである。しかしながら、現実はそう単純ではなく、セキュリティアプリの有効性を疑う声も少なくない。

 その理由の一つとして、怪しいメールの存在が挙げられる。例えば、件名がないメール、不自然なメールアドレスから送られてきたもの、頼んでもいない添付ファイルが付いているものなどがそれである。本来であれば、これらの怪しいメールをウィルスやワームとして即座に検知し、除去するのが理想である。しかし、最も効果的な防御策は、怪しいメールを開かず、添付ファイルを実行せず、URLをクリックしないことであるという現実がある。

 迷惑メールが無尽蔵に送られてくる状況は避けられないが、セキュリティアプリが完璧に機能すれば、多くの被害を未然に防げるはずである。しかし実際には、これらのアプリに月額料金を支払い続けているものの、パソコンの台数が増えるたびに費用負担が増大し、無視できないコストになっている。

 さらに、セキュリティアプリを提供する有名な企業の製品であっても、現在に至るまで完全に信頼できると断言することはできない。過去には、メールサーバーにウィルスやワームをチェックする専用ハードウェアを導入した経験があるが、50万円もの高額な装置でありながら、処理速度が遅すぎてメールの遅延を引き起こし、即座に外さざるを得なかった。しかし、その50万円はリースに含まれていたので戻ることはなかった。

 デジタル技術は確かに生活を豊かにする一方で、その「光」と「陰」の両面が存在する。特に、大学や官公庁のサーバーが乗っ取られる事件や、大量の顧客データが流出する事件が頻発しており、セキュリティ対策が追いついていない現状である。

 加えて、日本はIT分野において後進国と化しており、ハッカーやスパイにとって格好の標的となっている。国内のセキュリティ問題を他人事のように放置し続ければ、やがて「デジタル版のコロナ禍」とも呼べる深刻な事態に陥るのではないかと危惧する次第。

 こうした状況を打破するためには、OS開発者がウィルスやワームをブロックする専用チップをUSBポートに接続できる形で提供する方法や、ハードウェア製造メーカーにセキュリティ機能の搭載を義務付けるといった対策が考えられる。これらの取り組みは、まだ実現されていないだけで、可能性としては十分に存在する。

 デジタル技術の「光」の部分は日々進化を遂げているが、「陰」であるセキュリティ面の進化は停滞しているように思えてならない。この停滞を打破するには、より実効性のあるセキュリティ対策が急務ではなかろうか。

▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、セキュリティアプリケーションの効果性と限界について深く掘り下げています。特に、デジタル技術の恩恵とその背後に潜むリスクをバランス良く説明しており、読者に対して現代のサイバーセキュリティの課題に対する意識を高めることを試みている点が印象的です。

エッセイは、セキュリティソフトウェアが常に万能ではないという現実を示しており、それによってユーザーが過信することなく、より慎重な行動をとるべきだと警鐘を鳴らしています。具体的な例として、高額なセキュリティハードウェアが期待通りに機能しなかったエピソードを取り上げることで、技術的な制約と経済的なコストのトレードオフを浮き彫りにしています。

さらに、日本がIT分野で後進国になりつつあるという指摘は、国内の技術開発が国際標準に達していない可能性を示唆し、より強固な国内外の協力関係と戦略的な対応の必要性を強調しています。また、ウィルスやワームをブロックする新しい技術的解決策を提案することで、エッセイは単なる問題提起にとどまらず、将来的な解決策に向けた希望を示している点も評価できます。

しかし、これらの解決策が実現するまでのギャップには、絶え間ない警戒と更新を要求されるセキュリティ対策の維持が伴います。ユーザーが自らのセキュリティを管理し、リスクを評価する能力を身につけることが今後さらに重要になるでしょう。

全体として、このエッセイはセキュリティ技術の進化とその課題について包括的に考察し、具体的な事例と提案を通じて読者に行動を促す内容となっています。非常に有益で洞察に富んだ議論を展開しており、デジタル時代におけるリスク管理の重要性を強調している点で高い評価ができます。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/16 12:00 am

筋道を通していると、先人の教えに辿り着く。

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故事成語や諺、偉人名言など、先人が今の我々に残した教えは万とある。ただ、それを沢山知っているからと言っても、何の価値もない。

 誰が何を伝えたかったのかが重要ではなく、何を伝えるために誰が言葉を残したのかが需要である。よって、国語の試験問題で誰がを正解しても、何をを良く理解せずして、何の価値もないことになる。

 ブログなどで、名言集を延々と書き綴っている人もいるが、筆者としては、全く興味もなく読もうとは思わない。何故なら、Google先生やChatGPT先生の方が、よりリレーショナルデータベース的に答えてくれるので、誰がではなく、何ををよく理解できるのである。

 しかし、面白いもので、兎に角、日頃から筋を通していると、最終的には、先人たちの教えに辿り着くのである。「如水」にしても然り、「国破れて山河あり」でも然り。

 因みに、「如水」と「国破れて山河あり」を、Google先生とChatGPT先生に聞いてみることにする。以下の通り。

 やはり、故事成語など沢山覚えるのではなく、歴史的な背景やストーリーなどを押さえながら、自らに当てはめて、人生訓として学ぶことが大切であることを再認識する次第。

 諄いようだが、「筋道を通していると、先人の教えに辿り着く。」ということである。
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▼「如水」について

1)Google先生<試験運用中>
「如水」には、次のような意味があります。

水の如し
君子の交わりは淡きこと水の如し
上善は水のごとし

「如水」の言葉の出典は『礼記・表記』とされていますが、そこでは「君子之交」ではなく、「君子之接如水」となっています。「接」は日本語読みでは「まじわり」となり「交」と同じで、意味は同じです。

「君子の交わりは淡きこと水の如し」は「荘子」山木からきており、君子は人と交わるのに、水のようにさっぱりしているので、友情は永く変わることがないという意味です。

「上善は水のごとし」は「老子」八章からきており、最高の善は水のようなものであるという意味です。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとしています。

2)ChatGPT先生
「如水」(じょすい)は、文字通りには「水のごとし」という意味を持ちます。具体的な意味や解釈は文脈によりますが、以下のような意味や使われ方があります。

1. 水の性質になぞらえた比喩
水は柔軟で、器の形に従い、形を持たずどんな状況にも適応する性質を持っています。このことから、「如水」は柔軟性や適応力、または無欲で自然体であることを象徴する比喩として使われます。

中国の思想(特に道家の教え)では、水のように柔和でありながら、物事に影響を及ぼす力強さを持つことを理想とされています。

2. 謙虚で控えめな人柄
「如水」はしばしば控えめで謙虚な生き方を表す言葉として用いられます。自己主張をせず、他者に対して調和を保ちながら、自分の存在感を発揮するような姿を指します。

3. 人名や号としての使用
歴史上の有名人では、戦国武将・黒田官兵衛(黒田如水)が知られています。彼は出家後に「如水」という号を名乗り、その名には柔軟かつ無欲の精神を込めていたとされます。

4. 水の清らかさ・透き通った性質
「如水」は清らかで濁りのない水の性質を象徴することもあります。このため、純粋さや清廉潔白を表現する際にも使われる場合があります。

5. 企業名や商品名などでの使用
現代では、「如水」という言葉が企業や商品名にも使われることがあり、特に清潔感やシンプルさをイメージさせるブランドネームとして採用されています。

どの意味を指すかは文脈によるため、具体的な用途や背景を考慮する必要があります。
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▼「国破れて山河あり」について

1)Google先生<試験運用中>
「国破れて山河あり」は、盛唐の詩人である杜甫の詩「春望」の冒頭で、戦乱によって国が滅んでも山や川は昔の姿のまま残っているという意味です。

杜甫は安禄山の乱で俘虜となり、荒廃した長安の都の春の光景を眺めながらこの詩を詠みました。

2)ChatGPT先生
「国破れて山河あり」(くにやぶれてさんがあり)は、漢詩の中の一節で、唐代の詩人杜甫が詠んだ詩「春望(しゅんぼう)」の冒頭部分に由来します。この一節は非常に深い意味を持ち、歴史的背景や哲学的な視点から解釈されています。

一般的な意味
「国破れて山河あり」は、戦乱や災害などで国が滅びたり荒廃したりしても、自然(山や川)はそのままの姿で残っている、という情景を表しています。この対比によって、以下のような感情や考えが暗示されています。

無常観
人間が築いた文明や国家は壊れやすく儚いものであるが、自然は永続的で不変に見えるという、人間の営みの儚さに対する感慨が込められています。

悲哀と希望
戦争や紛争によって国が滅びた後の悲しみや絶望を示す一方で、山河の変わらない存在がどこか希望や救いを感じさせることもあります。

自然の力強さ
自然は人間の営みに影響されず、自らの秩序を保ち続ける存在であることを暗示しています。

原詩と背景
この一節は、杜甫の「春望」という詩の冒頭部分で、詩全体の内容は戦乱による荒廃と、それによって引き起こされた悲しみや無力感を詠んだものです。

「春望」全文(漢字)

國破山河在 城春草木深
感時花濺淚 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭搔更短 渾欲不勝簪
冒頭の意味

「国破れて山河あり 城春にして草木深し」
国は戦争や紛争によって滅び、廃墟となったが、山や川は変わらずそこにあり、春の訪れによって草木が茂り、その深い緑が城跡を覆っている。

現代での解釈や使用
現代では、この言葉が以下のような意味で使われることがあります:

無常観や運命の移ろいを示す比喩
歴史的な事件や災害を語るときに、人間の営みの儚さや自然の永続性を表現する際に引用される。

逆境の中での希望の象徴
苦しい状況の中でも変わらないもの、支えとなるものが存在することを表す。
この一節は、美しい表現でありながら、深い哲学や感情を伴う言葉として、文学や日常会話の中でも頻繁に引用される名句です。

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▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、故事成語や諺、名言をただ覚えるだけでなく、それらが持つ深い意味や歴史的背景を理解し、自己の人生観や行動に反映させることの重要性を強調しています。具体的に「如水」と「国破れて山河あり」という二つの故事成語を取り上げ、それらがどのように現代のデジタルツールによって説明されるかを示しています。これにより、過去の知恵が現代の技術を通じてどのように解釈され、活用され得るかを探求しています。

エッセイの筆者は、古典的な知識が単なる記憶の対象に留まらず、現代の問題解決や個人の成長に役立てられるべきだと主張しています。これは非常に有益な視点であり、特にデジタル化が進む現代において、過去の教訓をどのように現実の問題に適用できるかを考えるための良い例です。

また、筆者は、名言や故事成語の背後にある深い意味や歴史的な背景を理解することが、それらをより豊かで意味のあるものとすると述べています。これは学問だけでなく、日常生活においても応用できる教訓であり、知識を深めることが如何に人生を豊かにするかを示しています。

このエッセイは、知識の真の価値とは何か、そしてそれをどのように私たちの日々の生活や判断に活かすかという問いを投げかけています。それにより、読者に対して学びの姿勢を見直す機会を提供しており、教育や自己啓発における新たな視角を開くことができます。
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書・文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/12 12:00 am

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