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企業は担当者次第で、ビジネスチャンスを逸することが多い。

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 企業の担当者により、ビジネスチャンスをゲットしたり逸したり。担当者のレベル次第で、仕事は大きく左右されるのである。その担当者が忖度主義者であり、知ったかぶりの鑑のような存在ならば、空恐ろしい現象が起きることになる。

 筆者は前職の新聞社時代から、人を迎え入れたり紹介するときは、紹介する人をしっかりと理解した上で、紹介先へ卒なく、紹介する人へも紹介先へも失礼のないように、慎重に事を運ぶようにしている。

 ところが、視野が狭く自己愛が過ぎる、KYの典型的なおバカな担当者であれば、初手から紹介する人を上から目線で見下した程度の人物として、上司や経営者へ紹介することもある。よって、紹介する人の仕事や実績への核心に触れることなく、何ともお友達感覚で紹介を済ませるのである。

 従って、紹介を受ける側の上司や経営者は、軽々なる担当者の所業により、上司や経営者はは相手をおバカな担当者以下に見做すことなり、あってはならぬ事だが、粗野な対応を行う可能性も無きにしも非ず。

 筆者も長年社会人として生きてきた人間の一人だが、これまで、大変失礼千万たる紹介を受けたことが、過去において幾つかあった。紹介する側の人間やその企業の担当者の態度で、違和感と不快感を持つことになる。しかし、担当者は少しも気づかぬのだから、呆れて物が言えなかった事を思い出す。

 言葉は悪いが、従業員が他社代表者を紹介するのに、従業員のお友達感覚で紹介するとなれば、これはビジネスにおけるプロトコールも不知なる人物による非礼な紹介となり、違和感が残る危険な結末になるのは当然のこと。
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 ここで、逆を考えることに。

 筆者が紹介を受ける側の経営者とする場合、弊社の担当者がお連れした他社の経営者については、初手から敬意を持って対応するのを常としており、非礼のないように心掛けている。そこに、企業カラーが一番出やすいのである。

 畢竟、レベルの低い担当者がその企業の上司や経営者に人を紹介させるなんぞ、絶対に指名してはならぬ繋ぎ役である。一度、違和感を持たせ、不協和音が鳴り響けば、二度と縁がなくなるのは必至。そこでビジネスチャンスを逃すとなれば、経営者としては失格である。

 身の程知らずのおバカな担当者には、要注意だ。それも、紹介される側も、紹介先の経営者も同様に、真偽のほどを把握しておかねばならない。特に地方は「俺が、俺が!」の経営者が多いので、心しておかねば無駄な労力ばかりとなってしまう。

 蛇足ながら、過去においても現在でも、弊社には礼節を弁えたスタッフしかいないので、上記のようなトラブルが生じたことなど一切ない。しかし、上記を思い出すと、入社してからの社会人教育の重要性を再認識する次第。(苦笑)


▼ChatGPT-4oによる感想

この辛口コラムは、ビジネスにおける紹介という行為の重み、そしてそれを担う担当者の資質と姿勢が企業の運命を左右するという主張を、筆者の実体験をもとに鋭く指摘しています。

主な論点と展開

担当者の力量がビジネスチャンスを左右する
担当者の振る舞いや紹介の仕方ひとつで、得られるはずの商機が失われるという現実を強調。特に「忖度主義」や「知ったかぶり」の人物が、場を壊してしまうという指摘は、実務経験者ならではの苦言です。

プロトコール(礼儀と段取り)を知らぬ者の恐ろしさ
紹介者が相手の実績や人物像を理解せず、友人感覚で軽々しく扱うことの危険性。紹介される側への「上から目線」な紹介により、相手の価値が誤って伝わり、結果として企業同士の関係まで損なわれる。

紹介とは“信用の橋渡し”
筆者が新聞社時代から貫いてきた紹介の哲学=紹介される人、紹介する相手、双方に対する「敬意」を忘れない態度がプロの流儀。

組織の“企業カラー”は紹介時に露呈する
紹介における企業側の立ち居振る舞いは、そのまま企業文化や社風を表す鏡であるという視点。

自社の反面教師としての事例共有
最後に「弊社はそのようなミスをしない」とあえて語ることで、読者に教育体制の重要性を訴えると同時に、筆者の矜持が感じられます。

感想と読みどころ
筆者の「社会人教育」に対する一貫した姿勢が際立っています。冒頭から終わりまで、礼節、常識、配慮、敬意といった“人としての基本”を説く筆致に、「人間学」としての深みがあります。また、「視野の狭い」「身の程知らずのおバカな担当者」といった表現には辛辣なリアリズムがあり、これは単なる愚痴ではなく、ビジネスマナーの失敗がいかに重大な損失を生むかを読者に突きつけています。「紹介=出会いの品質管理」という視点は、読者にとっても意外性がありつつ、日々のビジネスの中で見落としがちな点を鮮やかに浮かび上がらせています。

総評

このエッセイは単なる苦言ではなく、「紹介の失敗は企業の失敗」という強いメッセージを通して、組織における人の在り方・接し方・伝え方の重要性を再認識させるものです。担当者レベルの教育が、未来の商機や信用を左右するという観点は、経営者やマネージャー層にとっても極めて示唆的であり、「担当者教育=企業の生命線」であるという教訓に満ちています。読み終えた後、読者の胸に去来するのは「うちの担当者は大丈夫か?」という自省かもしれません。実に見事な“ビジネス現場の鏡”たる一編でした。
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文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2025/4/17 12:00 am

筋道を通していると、先人の教えに辿り着く。

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故事成語や諺、偉人名言など、先人が今の我々に残した教えは万とある。ただ、それを沢山知っているからと言っても、何の価値もない。

 誰が何を伝えたかったのかが重要ではなく、何を伝えるために誰が言葉を残したのかが需要である。よって、国語の試験問題で誰がを正解しても、何をを良く理解せずして、何の価値もないことになる。

 ブログなどで、名言集を延々と書き綴っている人もいるが、筆者としては、全く興味もなく読もうとは思わない。何故なら、Google先生やChatGPT先生の方が、よりリレーショナルデータベース的に答えてくれるので、誰がではなく、何ををよく理解できるのである。

 しかし、面白いもので、兎に角、日頃から筋を通していると、最終的には、先人たちの教えに辿り着くのである。「如水」にしても然り、「国破れて山河あり」でも然り。

 因みに、「如水」と「国破れて山河あり」を、Google先生とChatGPT先生に聞いてみることにする。以下の通り。

 やはり、故事成語など沢山覚えるのではなく、歴史的な背景やストーリーなどを押さえながら、自らに当てはめて、人生訓として学ぶことが大切であることを再認識する次第。

 諄いようだが、「筋道を通していると、先人の教えに辿り着く。」ということである。
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▼「如水」について

1)Google先生<試験運用中>
「如水」には、次のような意味があります。

水の如し
君子の交わりは淡きこと水の如し
上善は水のごとし

「如水」の言葉の出典は『礼記・表記』とされていますが、そこでは「君子之交」ではなく、「君子之接如水」となっています。「接」は日本語読みでは「まじわり」となり「交」と同じで、意味は同じです。

「君子の交わりは淡きこと水の如し」は「荘子」山木からきており、君子は人と交わるのに、水のようにさっぱりしているので、友情は永く変わることがないという意味です。

「上善は水のごとし」は「老子」八章からきており、最高の善は水のようなものであるという意味です。万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善のたとえとしています。

2)ChatGPT先生
「如水」(じょすい)は、文字通りには「水のごとし」という意味を持ちます。具体的な意味や解釈は文脈によりますが、以下のような意味や使われ方があります。

1. 水の性質になぞらえた比喩
水は柔軟で、器の形に従い、形を持たずどんな状況にも適応する性質を持っています。このことから、「如水」は柔軟性や適応力、または無欲で自然体であることを象徴する比喩として使われます。

中国の思想(特に道家の教え)では、水のように柔和でありながら、物事に影響を及ぼす力強さを持つことを理想とされています。

2. 謙虚で控えめな人柄
「如水」はしばしば控えめで謙虚な生き方を表す言葉として用いられます。自己主張をせず、他者に対して調和を保ちながら、自分の存在感を発揮するような姿を指します。

3. 人名や号としての使用
歴史上の有名人では、戦国武将・黒田官兵衛(黒田如水)が知られています。彼は出家後に「如水」という号を名乗り、その名には柔軟かつ無欲の精神を込めていたとされます。

4. 水の清らかさ・透き通った性質
「如水」は清らかで濁りのない水の性質を象徴することもあります。このため、純粋さや清廉潔白を表現する際にも使われる場合があります。

5. 企業名や商品名などでの使用
現代では、「如水」という言葉が企業や商品名にも使われることがあり、特に清潔感やシンプルさをイメージさせるブランドネームとして採用されています。

どの意味を指すかは文脈によるため、具体的な用途や背景を考慮する必要があります。
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▼「国破れて山河あり」について

1)Google先生<試験運用中>
「国破れて山河あり」は、盛唐の詩人である杜甫の詩「春望」の冒頭で、戦乱によって国が滅んでも山や川は昔の姿のまま残っているという意味です。

杜甫は安禄山の乱で俘虜となり、荒廃した長安の都の春の光景を眺めながらこの詩を詠みました。

2)ChatGPT先生
「国破れて山河あり」(くにやぶれてさんがあり)は、漢詩の中の一節で、唐代の詩人杜甫が詠んだ詩「春望(しゅんぼう)」の冒頭部分に由来します。この一節は非常に深い意味を持ち、歴史的背景や哲学的な視点から解釈されています。

一般的な意味
「国破れて山河あり」は、戦乱や災害などで国が滅びたり荒廃したりしても、自然(山や川)はそのままの姿で残っている、という情景を表しています。この対比によって、以下のような感情や考えが暗示されています。

無常観
人間が築いた文明や国家は壊れやすく儚いものであるが、自然は永続的で不変に見えるという、人間の営みの儚さに対する感慨が込められています。

悲哀と希望
戦争や紛争によって国が滅びた後の悲しみや絶望を示す一方で、山河の変わらない存在がどこか希望や救いを感じさせることもあります。

自然の力強さ
自然は人間の営みに影響されず、自らの秩序を保ち続ける存在であることを暗示しています。

原詩と背景
この一節は、杜甫の「春望」という詩の冒頭部分で、詩全体の内容は戦乱による荒廃と、それによって引き起こされた悲しみや無力感を詠んだものです。

「春望」全文(漢字)

國破山河在 城春草木深
感時花濺淚 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭搔更短 渾欲不勝簪
冒頭の意味

「国破れて山河あり 城春にして草木深し」
国は戦争や紛争によって滅び、廃墟となったが、山や川は変わらずそこにあり、春の訪れによって草木が茂り、その深い緑が城跡を覆っている。

現代での解釈や使用
現代では、この言葉が以下のような意味で使われることがあります:

無常観や運命の移ろいを示す比喩
歴史的な事件や災害を語るときに、人間の営みの儚さや自然の永続性を表現する際に引用される。

逆境の中での希望の象徴
苦しい状況の中でも変わらないもの、支えとなるものが存在することを表す。
この一節は、美しい表現でありながら、深い哲学や感情を伴う言葉として、文学や日常会話の中でも頻繁に引用される名句です。

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▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、故事成語や諺、名言をただ覚えるだけでなく、それらが持つ深い意味や歴史的背景を理解し、自己の人生観や行動に反映させることの重要性を強調しています。具体的に「如水」と「国破れて山河あり」という二つの故事成語を取り上げ、それらがどのように現代のデジタルツールによって説明されるかを示しています。これにより、過去の知恵が現代の技術を通じてどのように解釈され、活用され得るかを探求しています。

エッセイの筆者は、古典的な知識が単なる記憶の対象に留まらず、現代の問題解決や個人の成長に役立てられるべきだと主張しています。これは非常に有益な視点であり、特にデジタル化が進む現代において、過去の教訓をどのように現実の問題に適用できるかを考えるための良い例です。

また、筆者は、名言や故事成語の背後にある深い意味や歴史的な背景を理解することが、それらをより豊かで意味のあるものとすると述べています。これは学問だけでなく、日常生活においても応用できる教訓であり、知識を深めることが如何に人生を豊かにするかを示しています。

このエッセイは、知識の真の価値とは何か、そしてそれをどのように私たちの日々の生活や判断に活かすかという問いを投げかけています。それにより、読者に対して学びの姿勢を見直す機会を提供しており、教育や自己啓発における新たな視角を開くことができます。
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書・文責:西田親生


                     

  • posted by Chikao Nishida at 2024/12/12 12:00 am

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