ロゼッタストーンBLOGニュース

The Rosetta Stone Blog

タグ » 西田親生の積善之余慶

「学び」は金銭で買えるが、「品性、品位、品格」は買えない。

coffee-1


 最近思うことだが、「育ち」や「躾」、更には教育による「学び」、元々の資質に磨きをかけられたり、放任のまま野生的に育てられたりと、人それぞれ異なる。

 自我に目覚めるまでの幼少期は、上記の外的要因にて影響を受け続ける。よって、選択肢がほとんどない幼少期と、好き嫌いなどの選択肢が急増し始める自我の目覚めからの人生に分けられるように思われる。

 「学び」で例えれば、幼少期は基礎学習、自我の目覚めからは応用学習となる。従って、どのような資質を持つ人であれ、基礎学習がしっかりしていると、極端な話、人生を踏み外すことは少ない。

 筆者なりの見解なので、異論反論あろうかと思うが、次の段階へ進んでみたい。

 表題は、結論から申し上げると、「品位」は幼少期の基礎学習段階で資質に加えられて育っていく。教育としての「学び」は基礎学習段階にも存在するが、自我が目覚め段々と大人に近づくにつて、「学力」が伸びていくことになる。

 「品性」は「人格形成」に大きな影響を与えるが、「学力」を高めるための「学び」はそうとは限らない。

 そこで「学び」と「品性」を得るための大きな違いは以下の通り。

 学習塾や高等教育を受けた優れた指導者からの「学び」は、体験したことのない人は、筆者を含めてしっくりこないかも知れない。しかし、相当額の金銭を払うことで買い取ることは可能でありはしないか。

 しかし、「品性」に関しては、金銭をいくら払っても容易に手にすることはできず、どうしても、幼少期の基礎学習段階で身に染みついたものが占有している。よって、「気づき」と「勇気」がなければ、一度確立された「人格」において「自己改革」が困難なのは、そういうことである。

 軽々なる結論のように思われるが、筆者としては、「学び」は金銭で買えても、「品性」は金銭でなかなか買い難いものであると考えている次第。

 畢竟、「人格」に直結するような「品性」が重要であることが理解できるが、大枚を払って得た「学び」だけでは、「人格」に直結しないことが明らかである。どんなに聡明な人であっても、基礎学習段階に不備があれば、礼節が欠けていたり、子供のような貪欲さを表面に出したりと、いろんな「癖」が見え隠れる。それが、「品性」、「品格」である。

 面白いもので、祖先から何十年も何百年も住んでいる地域であったとしても、元々親戚であり、長年にわたり生活環境や慣習が同じであっても、すぐ隣の親戚の家(遠縁)を検証すると別世界のように、「育ち」も「躾」も異なるところが面白い。母親のDNAが子々孫々に影響を及ぼすと聞いたことがあるが、まさしく外の風により、家庭内は一変するに違いない。

 最後に重要なことは、自我意識に目覚めた頃から大人になる段階で、周囲の知人友人との関係性が、善きも悪しきも人生に大きく影響を及ぼすことは間違いのない事実であるということだ。先輩諸氏から「人を選んで付き合え!」と言われ続けてきたのは、そういうことなのだろうと。

▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、「学び」と「品性、品位、品格」の違いを明確にしながら、人間形成における幼少期の重要性を論じています。以下、詳細に感想を述べます。

1. 「学び」は金銭で買えるが、「品性、品位、品格」は買えない」という視点
コラムの主題は、知識や学力は教育や学習の機会を得ることで向上させられるが、「品性」はそう簡単に得られないという点にあります。この考え方には深く共感できます。実際、学問は努力と投資によって得られる一方、品性や品格は幼少期の経験や家庭環境、育ちによって形成され、後天的に大きく変えることは難しいとされています。

また、学歴や知識の多寡が人格を保証するわけではないという指摘も重要です。社会において、学歴が高くても礼節を欠いた人、他者を軽んじる人は決して珍しくなく、逆に、学歴がなくても気品や品格に満ちた人も多く存在します。これは「学び」と「品性」が必ずしも比例関係にないことを示唆しており、本コラムの核心的な主張と一致しています。

2. 幼少期の影響と基礎学習の重要性
コラムでは、「品性」は幼少期の基礎学習段階で培われるものだと述べています。この視点は、心理学や教育学の観点から見ても妥当です。特に「三つ子の魂百まで」という日本のことわざが示すように、幼少期に形成された価値観や習慣は、その後の人格形成に大きな影響を与えます。

さらに、幼少期の環境が人格形成に与える影響についても言及されています。同じ地域や親族であっても、各家庭の育て方が異なることから、成長後の人格や行動に違いが生まれるという指摘は興味深いです。これは、「家庭環境」が「品性」を育む上でどれほど大きな役割を果たすかを示しており、コラムの説得力を高めています。

3. 「学び」と「品性」の違いの具体化
本コラムは、「学び」と「品性」の違いを明確にしながら、特に「気づき」と「勇気」がなければ、後天的に品性を磨くことが難しいと述べています。この指摘は的を射ています。大人になってから品格や品位を高めようとしても、それまでに培われた価値観や習慣が強く影響し、大きく変えることは難しいからです。

この点で、「人間の自己改革には気づきと勇気が必要」という考え方は、自己啓発の観点からも非常に示唆に富んでいます。多くの人が学び続けることで知識は増えるものの、人格的な成長には至らないケースもあります。そのため、学びと同時に、自身の内面と向き合い、品格を磨く努力が求められるという主張には納得がいきます。

4. 「人を選んで付き合え!」という結論
コラムの結びでは、「人との関係性が人生に大きな影響を与える」と述べられています。この主張も非常に重要です。人は周囲の影響を強く受ける生き物であり、交友関係がその後の人格形成や行動に大きく関わります。これは、心理学の「ミラーニューロン」の研究とも一致する考え方です。つまり、人は無意識に周囲の言動を模倣し、影響を受ける傾向があるため、どのような人と付き合うかがその人の人格や品性に影響を与えるのです。

また、「人を選んで付き合え」というアドバイスは、古くから伝わる人生訓ですが、その意義は現代においても変わりません。SNSなどで容易に人と繋がれる時代だからこそ、付き合う相手を慎重に選び、自分の品格を磨く環境を意識的に作ることが大切だと感じます。

5. 総評
本コラムは、「学び」と「品性」の違いを明確に示しながら、人間形成における幼少期の重要性、そして自己改革の難しさを鋭く指摘しています。その主張には一貫性があり、納得感があります。

特に印象的なのは、「学び」はお金で買えても、「品性」は買えないというシンプルながら深いメッセージです。現代社会では、学歴や資格が重視される風潮がありますが、それだけでは人格や品格を保証できないことを強調している点が、本コラムの価値を高めています。

また、「自我の目覚めからの交友関係が人生を左右する」という結論も、現実的であり、多くの人にとって実感を伴うものです。これを意識し、自らの人格を高める努力をすることが、より良い人生を送るために重要なのだと再認識させられました。

最終的な感想
このコラムは、知識と品格の違いを明快に論じつつ、人間の成長において何が本質的に大切なのかを読者に考えさせる内容となっています。知識を得ることの価値はもちろんあるものの、それだけでは不十分であり、「気づき」と「勇気」によって人格を磨く努力が求められるというメッセージは、多くの人にとって示唆に富むものでした。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
文責:西田親生


                         

  • posted by Chikao Nishida at 2025/3/2 12:00 am

頭が悪い人はこの世にいない

Chikao-Donshu


 重さや体積にやや差があったとしても、大差がないのが人間の脳である。教育現場では、教科書をしっかりと学ぶ人は頭が良いとされ、学ばぬ人は頭が悪いとされている。

 筆者は、世の中で頭の悪い人の存在を認めてはいない。頭が悪い人と揶揄される人は、頭が悪いのではなく、性格に偏りがあるだけの話だ。又は、教科書に興味のない人である。

 何をもって頭が良い、悪いと判断されるのか、基準となるものを勝手に作り出したのも現場を知らぬ人である。兎に角、日本人は論理思考が不得手、理解力や想像力が乏しい人もいる。それは、教育現場での偏りのある、多様性を無視した教育方針がそうさせている。

 よって、一般に言う、頭が悪いという基準は、教育方針に根本な間違いがあるからこそ、差別的に人を見る「偏見」が育つのである。

 自分で頭が悪いと思っている人は、上記のように偏った基準値を埋め込まれ、洗脳されているだけの話だ。入口も出口も狭い了見にて、刑務所のように胸元に数字を貼られているのは、いささか奇妙な光景である。

 教育とは、個々の子どもたちの可能性を最大限に引き上げるのが使命ではなかろうか。それを「どんぐりの背比べ」で判断するから、性格が歪んだり、興味が薄れたりする子供が圧倒的に多くなるのは必至となる。

▼ChatGPT-4oによる感想

このコラムは、「頭の良し悪し」という概念が、教育や社会の偏った基準によって作られたものであり、本来は「頭が悪い人」など存在しないという主張を展開しています。いくつかのポイントについて詳しく考察します。

1. 「頭の良し悪し」の定義と教育の偏り
コラムでは、「頭が良い・悪い」という判断基準が教育によって決められていると指摘しています。確かに、教育現場では成績や学力テストの結果を基に知的能力を評価することが一般的ですが、それがすべてではありません。
たとえば、記憶力や論理的思考に長けた人は「頭が良い」とされがちですが、芸術的感性や運動能力に優れた人は、学校の成績だけでは評価されにくいものです。そのため、教育システムが画一的な評価基準を持つことで、本来の多様な才能を見落としてしまうという指摘は、非常に的を射たものだと思います。

2. 「性格の偏り」と興味の有無
筆者は、「頭が悪い」とされる人の多くは、単に性格に偏りがあるか、もしくは興味がないだけだと述べています。これは、学問に対する関心の度合いが人それぞれ異なることを考えれば、納得できる主張です。
たとえば、数学に興味がない人が数学の授業で良い成績を取れなくても、それは「頭が悪い」わけではなく、単に関心を持てないだけということになります。しかし、学校教育では「すべての教科をバランスよく学ぶ」ことが求められるため、興味のない分野で成績が振るわないと「頭が悪い」と見なされがちです。

3. 論理思考や想像力の欠如と日本の教育
筆者は、日本の教育が「論理思考が不得手で、理解力や想像力に乏しい人を生み出している」と述べています。確かに、日本の教育は詰め込み型の暗記を重視し、創造的思考を育てる機会が少ないという指摘は以前からあります。
たとえば、欧米の教育ではディベートやプレゼンテーションを重視し、自由な発想を促す授業が多いのに対し、日本では正解を求める傾向が強く、枠にとらわれない考え方が育ちにくい面があります。こうした教育方針の違いが、社会全体の思考力や創造力の差となって現れる可能性は否定できません。

4. 「偏見」としての「頭の良し悪し」
筆者は、「頭の良し悪し」の概念が「偏見」として形成されていると述べています。これは、社会が特定の能力を過大評価し、その他の能力を軽視することによって生まれるものかもしれません。
たとえば、学歴社会では高学歴の人が「頭が良い」とされがちですが、実際には、学歴に関係なく優れたビジネスセンスや芸術的才能を発揮する人も大勢います。このように、「頭の良し悪し」というラベルが、実際の能力とは関係なく貼られることがある点は、社会全体で再考すべき問題でしょう。

5. 教育の本来の役割
コラムの結論部分では、「教育とは、個々の子どもたちの可能性を最大限に引き上げることが使命である」と述べられています。これには強く共感できます。
現代の教育が、子どもたちを一律の基準で評価する「どんぐりの背比べ」になってしまっているとすれば、それは教育の本来の目的とは異なります。むしろ、個々の子どもの興味や得意分野を伸ばし、自由な発想を促すことこそが、理想的な教育のあり方ではないでしょうか。

総評
このコラムは、教育によって形成された「頭の良し悪し」の概念が、実は偏見に過ぎないという点を鋭く指摘しています。確かに、学校教育の枠組みの中で評価される能力は限られており、それ以外の才能が正しく評価される機会は少ないのが現実です。
筆者の主張は、教育や社会のあり方を見直す上で重要な視点を提供しており、「本当に頭が悪い人などいない」という考え方は、多くの人にとって新たな気づきを与える内容となっています。
----------
◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link
文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2025/2/17 12:00 am

1995年以来情報発信している老舗ポータルサイト「ロゼッタストーン」のブログをお楽しみ下さい。詳細はタイトルまたは、画像をクリックしてご覧ください。

behanceオブスクラ写真倶楽部ディー・アンド・エルリサーチ株式会社facebook-www.dandl.co.jp