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阪神・淡路大震災|「すぐ熊本へ戻って」と案じてくれた、亡き友の声

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 NHK「映像の世紀バタフライエフェクト」の「災害報道 挫折と葛藤の百年」を観て、あの日の記憶がよみがえった。

 1995年1月17日、午前5時46分。マグニチュード7.3、最大震度7を記録した阪神・淡路大震災である。

 その朝、筆者は熊本空港から伊丹空港へ向かう準備をしていた。関西テレビに、特別番組のタイトルに使うCG動画を届ける予定だった。

 ところが、テレビをつけると、信じがたい光景が映し出されていた。

 倒れた高架橋。崩れた道路の端で、今にも落ちそうになっているバス。街のあちこちから立ち上る煙と炎。上空のヘリコプターから届く映像を見ても、すぐには現実として受け止められなかった。

 これから自分が向かおうとしている場所で、いったい何が起きているのか。

 関西テレビの担当プロデューサーに電話をかけると、局内も大混乱に陥っているという。神戸市長田区に住む担当ディレクターも、まだ出社できていなかった。

 その日の出張は断念することにした。時間が経つにつれ、被害の大きさが明らかになっていく。現地の人たちのことが気にかかる一方で、引き受けた仕事をどう果たし、必要な映像をどう届ければよいのか、考え続けていた。

 震災から6日後の1月23日。筆者は午前中の便で熊本空港を発った。

 ゼロハリバートンのキャリーバッグには、差し入れの「イワシめんたい」を、入るだけ詰め込んでいた。

 伊丹空港には無事に着いたものの、バスやタクシーの姿はほとんど見当たらない。キャリーバッグに腰を下ろし、タクシーを待った。1時間ほどだっただろうか。これほど長く感じられた待ち時間は、そうはない。

 ようやく乗れたタクシーの運転手は、道路の被害や、倒壊した建物、電柱などに行く手を阻まれ、思うように走れない状況を話してくれた。

 迂回に迂回を重ね、当時、北新地近くにあった関西テレビ本社へ向かった。普段なら30分ほどの道のりに、1時間半以上かかったように記憶している。

 担当プロデューサーの顔を見たとき、ようやく少し、気持ちが緩んだ。

 長田区のディレクターも無事だった。自宅が被災しながらも、瓦礫の中を歩き、大阪の関西テレビまでたどり着いたという。皆の顔はこわばっていた。

 特番について打ち合わせ、持参したCG動画のデータを手渡した。その後の予定を相談すると、プロデューサーはこう言った。

「西田はん、局で押さえているホテルにも空きがなくて、泊まってもらえる状態やないんです。また余震が来るかもしれへんので、安全のために、すぐ熊本へ戻ってもらえまへんか」

 関西テレビの仕事を請け負い始めたのは1992年。まだ3年ほどの付き合いだったが、彼とは親友のように心が通じ合っていた。

 自分たちも大変な状況にありながら、こちらの身を案じてくれる。その言葉に従い、筆者はわずか30分ほどの滞在で局を後にした。ハイヤーで伊丹空港へ戻り、その日のうちに熊本へ帰った。

 オフィスに着いたことを電話で伝えると、彼は安堵してくれた。

 しかし、筆者の気持ちは落ち着かなかった。現地で目にした被害状況と、人々のこわばった表情が頭を離れない。余震への不安も続き、新たな被害の知らせに接するたび、胸がふさがった。

 それから数日後、長田区から歩いて出社したディレクターから電話があった。

「あの、たくさんの『イワシめんたい』、とてもありがたかったです。皆でご飯にのせて、ばくばく食べました。本当においしかったです。助かりました」

 続けて、届けた映像についても、翌週の特番の放送が決まれば、そのまま使わせてもらうとの話があった。

 筆者が持参した「イワシめんたい」は、イワシの腹に明太子を詰め、甘露煮にしたものだった。食欲がないときでも、ご飯が進む。あの日、キャリーバッグいっぱいに詰めた差し入れを、皆で食べてくれた。そのことが、うれしかった。

 映像を届けるという仕事のほかに、自分にもできたことがあったのだと思えた。

 1995年は、筆者にとっても大きな転機となった年である。震災から約7か月後の8月22日、弊社公式ウェブサイトを開設したのである。

 もし震災前にインターネットを使える環境が整っていたら、現地の情報をもう少し集め、より適切な判断ができたのではないか。後になって、そう考えることもあった。

 もちろん、情報を得られることと、安全に行動できることは同じではない。交通も宿泊もままならない中で、筆者の訪問が先方の負担にならなかったか。1月23日に大阪へ向かった判断が適切だったのか、今も結論は出ていない。

 それでも、あのとき交わした言葉は、今もはっきりと覚えている。

「安全のために、すぐ熊本へ戻ってもらえまへんか」

「皆でご飯にのせて、ばくばく食べました」

 身を案じてくれた声と、差し入れを喜んでくれた声。その二つは、震災の記憶とともに、筆者の中に残っている。

 それから7年後の2002年5月25日。あの日、筆者を気遣ってくれたプロデューサー、苧木晃氏が、48歳の若さでこの世を去った。

 大阪の葬儀場には、多くの芸能人や放送関係者が集まっていた。筆者もその中に立っていたが、別れを受け止める言葉が見つからなかった。

 仕事を通じて出会い、いつしか親友のようになった人。その人と、もう話すことができない。そう思うと、息が詰まった。

 阪神・淡路大震災を思い出すとき、筆者の脳裏には、倒れた高架橋や立ち上る煙とともに、彼の顔が浮かぶ。

 混乱のただ中で、筆者の無事を願い、熊本へ送り返してくれた人がいた。

 その声を、今も忘れることはない。

※ヘッダー画像は、ChatGPTが記事を読み生成したもの

▼苧木晃が世を去って11年近くに・・・2013年3月2日掲載記事
https://www.dandl.co.jp/rsblog/index.php?UID=1621141048Link Link

▼気象庁|「阪神・淡路大震災」特設サイト
https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/1995_01_17_hyogonanbu/index.htmlLink Link

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▼ChatGPTによる感想

読後に残るのは、「すぐ熊本へ戻って」という言葉に込められた、相手を失いたくないという気遣いです。震災の混乱の中で発せられた実際的な言葉が、後年の別れを知ることで、かけがえのない声として響いてきます。

とりわけ心に残ったのは、「イワシめんたい」のくだりでした。キャリーバッグに詰めて運ぶ姿と、「ばくばく食べました」という返事から、厳しい状況の中にも食事を囲む人々の姿が浮かびます。具体的な食べ物と飾らない言葉によって、互いを思う気持ちが伝わってくる。この場面が、作品に温かさと生活の手触りを与えています。

また、**「大阪へ向かった判断が適切だったのか、今も結論は出ていない」**という一節には、誠実さを感じました。差し入れを喜ばれたことだけで、自分の行動を正しかったと締めくくらない。相手の負担になった可能性まで振り返る姿勢があるからこそ、感謝や追悼の言葉にも説得力が生まれています。

終盤では、それまで読んできた「無事」という言葉の重みが変わります。ディレクターの無事を知り、筆者も無事に帰り、その帰着に友が安堵する。その積み重ねの先に、友の死が置かれているため、「もう話すことができない」という短い一文が深く響きます。タイトルで別れを予告されていても、そこに至るまでに彼の気遣いに触れているので、喪失が具体的に伝わります。

最後の「その声を、今も忘れることはない」には、静かな余韻があります。読み手も、自分を案じてくれた誰かの声を思い出す。個人の記憶が、読者自身の大切な人の記憶に触れるエッセイだと思いました。
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◎ロゼッタストーン公式サイト(since 1995/熊本県第一号WEBサイト)
 https://www.dandl.co.jp/Link Link
文責:西田親生


             

  • posted by Chikao Nishida at 2026/9/9 12:00 am

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