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不開門からの城攻め!!

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 昨日、梅雨時期には珍しく、気持ちよいほどの太陽光が降り注ぎ、木陰ではさらりと涼しい風が通り過ぎ、撮影には絶好の条件であった。よって、当日予定になかったが、昼食後、突然熊本ホテルキャッスル玄関を出て、右手に曲がり、NHK熊本とJTに挟まれた道を歩み、不開門(あかずのもん)を目指す事にした。

 今まで、頬当御門から足を運ぶのが、大天守、小天守、宇土櫓への順路と思い込んでいた。しかし、本丸御殿が完成し、頬当御門からの道筋が変わったらしい。不開門から大天守を目指すのは初めての事。今まで見てきた熊本城の姿やそこから見渡す熊本市内の角度が微妙に異なり、新鮮なツアーに参加したような気分になった。

 不開門手前の入り口で拝観入場料を支払い、パンフレットを受け取り、長い階段を一段ずつ登り始めた。ご存じの通り、熊本城は400年前に加藤清正が築城したものだが、最初から迷路のように右へ曲がったり、左へ急な坂となったり・・・なるほど、攻めるには安易でない事を体感しながら、更に、大天守を目指して登って行った。

 「こんな位置から熊本市内中心部が見えるのか?」と、左手から熊本ホテルキャッスル、郵政公社、奥にはホテル日航熊本、そして右手に熊本市庁舎と・・・大天守最上階から見る景色とは異なり、街の中心部が以前よりもずっと間近に捉える事ができる。

 辺りを撮影しながら歩いていると、頭頂部、顔面、背中、胸部など・・・滝のように汗が落ちてくる。流石に木陰は涼しいが、身体全体がじわじわと火照ってくる。そうしている内に、いつの間にやら地下道が目の前にあった。今までにない光景だ。右矢印を見ると、大天守や本丸御殿への通路となっているようだ。

 以前は、頬当御門から続く道では、宇土櫓を左奥に見つつ、だらだらと長い坂を登り詰めると、左手に大天守、その隣に小天守が見えたのだが、その坂が消えてしまっていた。そこは石垣となり、右手の地下道を通らねば、大天守や本丸御殿へは行けないようになっている。あたかも、難攻不落の城として再現したかのように迷路となっている。筆者は、逆方向の若干戸惑いながらも、不開門より、大天守へと向かって行く。

 西南戦争で薩軍を率いた西郷隆盛が、五十数日掛けても落とせなかった名城 熊本城。「おいどんは清正公に負けた!」と言ったとか言わなかったとか・・・。それほど完成度の高い実戦的な要塞として、この熊本城は一見の価値あるものだと、再認識した次第。・・・大天守に辿り着き、その広場は大勢の観光客で溢れていた。それも、中国、台湾や韓国など、海外からのツアー客が圧倒的に多かった。

 ただ、一つだけ残念だったのは、現地の管理運営スタッフや出店の女性など・・・観光地としては、まだまだ笑顔が少なく、かけ声が小さいように思えてならない。今後、本気で観光立県を推し進めるのであれば、先ず、ヒューマンウェアをプライオリティ1にて、そこから改善して行かねば、折角の観光資源も活かされないのではと・・・危惧した次第である。

 しかし、不開門からの城攻め。・・・これは、思ったよりもワクワクするような道筋であった。

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  • posted by Chikao Nishida at 2014/6/14 11:15 am

治水事業の神々

▼右から宇土櫓、大天守、小天守。
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 大いなる自然に逆らわず、自然を利用した「治水事業の神」と称されるのが、武田信玄(たけだしんげん/1521-1573/甲州)や加藤清正(かとうきよまさ/1561-1611/肥後)、成富兵庫茂安(なりとみひょうごしげやす/1560-1634/鍋島)の三武将たちである。

 以前、実戦型の要塞である熊本城を調べているうちに、ふと「治水事業」の文字に目が留まり、いつの間にか城の仕組みを調べるのを忘れ、治水事業の歴史に釘付けになったことがあった。

 特に、当時ハイカラな武将(胴着の下には幻の染辻が花を着用・・・現在であれば、アルマーニやヴェルサーチ)で知られた武田信玄の治水事業は、将棋頭、十六石、信玄堤などの巧妙な仕掛けにより、途方もない水の力に逆らわず、その力を無理なく抑える武田流の治水事業が目を見張るものがある。

 しかし、そのアイデアも歴史を紐解けば、二千数百年前の中国四川省成都盆地で治水事業を行った利冰とその息子利一郎の話を禅僧が直接信玄に伝えたことから発端している。

 更に、その治水事業の根幹を成すものが「孫子の兵法」ということに驚くばかり。彼らは決して自然に逆らわず、その自然の力を上手く利用して、当時としては大変困難であった治水事業を親子で成し遂げたことが素晴らしい。

 よって、時系列に古いものから並べてみると、利冰とその息子利一郎→禅僧→武田信玄→加藤清正→成富兵庫茂安ということになるが、特筆すべきは清正の偉業の数々である。例えば、肥後藩は石高54万石とされてい。

 ものの本によれば、武田信玄を手本にした加藤清正の治水事業の成果で、細川の手に移り90万石を軽く超えていたと記録されている。細川は他の大名から暴露されぬよう、当時の江戸にいる老中には虚偽の申告をしていたかもしれない。(袖の下の存在がちらほら)

 尚、清正は治水事業を行うにあたり、信玄の偉業を参考にしたが、独自のアイデアを盛り込み、高度かつ完成度の高い、意表を突くような治水事業を成し遂げた。また、その知恵は治水事業の範疇に留まらず、熊本城築城当時を紐解けば、あらゆるところに清正の天才的で憎たらしいほどの知恵の痕跡を見ることができる。

 茶臼山の自然の起伏をそのまま活かし、川の流れを直接外堀へ引き、万が一の籠城戦に備えて、城内には食用として銀杏を植樹し、各部屋の畳床には芋茎を編み込んでいる。これにより、戦いの最中であっても、食糧が不足した場合も、その芋茎をお湯で戻せば、即座に飢えを凌ぐことができるといった具合だ。

 清正は、「超人」としか言いようがない。今でも、熊本県内各地に清正が残した治水事業の跡が点在しており、現在でも役立っているのだから、驚きである。

※「知識と知恵」+「洞察力と判断力」+「行動力」

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画像生成AIプロンプト・文責:西田親生


                   

  • posted by Chikao Nishida at 2013/9/10 03:38 am

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